モモです。


さっそくですが、昨日の続きです。

では、「敵とともに生きる」 とはどういうことなんでしょうか。

著者が合気道の修行を通じて導き出した見解があります。
これが、この本の中で、私には一番おもしろかったところです。


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例えば、相手に片手の手首を握られて動きを制されているところを
想定して頂きたい。

そのような攻撃に対する武術的な応接の基本は、手首を握ってくる
相手の動きに逆らわず、それと同じ方向に手首を旋回させることである。
つまり、攻撃を阻止するのでも、逃れるのでも、払うのでもなく、
いわば攻撃を加速するのである。


そのとき、相手からの攻撃は私の動きを制限する代わりに、
私の腕の旋回運動にエネルギーを補給することになる。


要するに、敵からの「攻撃」と主体側の「反撃」が同一の運動態を
形成するように動くということである。



私たちの身体が物理的なものである限り、運動はすべて波形を持っている。
呼吸も脈拍も筋肉運動も振動である。

二つの波の波形の頂点と谷が重なる場合、
それは 「位相が揃っている」 と言われる。


そして、あらゆる物体の間に成り立つコミュニケーションとは煎じ詰めれば
この波形と波形の干渉のことに他ならないのである。


武術では、立ち合いにおいて相手からの攻撃に身体をなじませる
ことを 「拍子が合う」 と言う。


そして、拍子が合ったあと、相手の身体をフリーズさせたり、運動不能に
したり、絶息させることを目指すのではない。

相手が硬直してしまっては、「複素的身体」は操作できなくなるからである。

この 「複素的身体」 を著者は、馬と乗り手、楽器と奏者に例える。


相手を敵とみなす場合、相手のパフォーマンス能力は低いほうが望ましい。
しかし、「複素敵身体」 として、よりスムーズな動きをするためには
相手が高性能な運動態であり続けることこそ望ましいのである。

なぜなら、それは私と相手が複合的に構築している複素的身体の
パフォーマンスの高さを意味するからである。


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敵と主体が同一の運動態を形成する。


拍子が合う


複素的身体


これらの表現がそのまま何にあてはまるのか、
私が思わずこの部分を読みながら、スゴイ!と声に出してしまうほど
興奮した理由が乗組員のみんなには、きっとわかってもらえるよね。



もし、え~わからないっていう人がいたら、ここで言う 「敵」 を
「波長の合うもの ⇒ 似たもの」 と置き換えて考えてみてね。



とにかく大事だと思ったのは、「拍子が合った」 あと、相手を絶息させるのではなく
よりスムーズな動きができる、パフォーマンスの高い「複素的身体」を目指す。
っていうところです。


いかがでしたか?
私なりに、著者の文章を読み込んで書いたつもりですが、部分的に抜粋したので
意味がつながらないところもあるかもしれません。

わからないところは、ぜひコメントに投稿してみてください。

または、この本を読んでみると、より理解しやすいかもしれません。


私は、図書館で借りたので、手元におきたくなって本屋に買いに行ったのですが
もっと他のも読みたくなって、別の本を購入しちゃいました。
これも、なかなか面白い。


さらに、今日図書館へ返しにいった時、今回は何も借りずに帰ってくるぞ!

と心に誓っていたのに、足は 作者『う』 の棚へ向かってしまい

立ち読みして帰るつもりが、しっかりまた1冊借りてしまいました。


課題図書も読まずに、ウチラーへの道まっしぐらです(^▽^;)