モモです


前回は、ほとんどが本の引用文だけで終わってしまい、
言いたいことがあまり伝わらなかった気がしています。


この本を読んで、スゴイ!これを皆とシェアしたい!って思っても
自分の気持ちだけが空回りしてしまって、うまく表現できないもどかしさ。
でも、『伝える力』 を磨くには、ここで引き下がってはいられません!

皆さま、もう少しお付き合いくださいませ。


この本の著者、内田樹さんの肩書きは、一応は思想家となって
いますが、レヴィナスというフランスの哲学者の研究者でもあり
武道家でもあるようです。


これだけでも、私達の師であるあの方と、似ているよね。
興味がある人は著者のブログ 『内田樹の研究室』 を検索してみてください。
ちょっと覗いただけでも、かなりおもしろかったです。


そのブログから抜粋した文章を編集して何冊かの本が出版されていて
私の紹介した本もそのうちのひとつです。

今回は、この本の中で私が“痛いなぁ”って感じたところを紹介します。
丸々抜粋すると、長くなりすぎるので、ところどころ引用してみます。


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生物はびっくりすることで、その身体能力が急激に低下する。
(これは、前回書いた「居着き=病の状態」と同じ状態ですね。)
だから、「驚かない」ということは、生存戦略上とても大切なことなのである。



では、どうやったら「驚かない」ようになるか。
これが矛盾しているようであるが、「驚く」ことによってなのである。



「何を見ても驚かない」というのは、要するに知性が鈍感だということである。
自分の枠組みにしがみつき、どんな出来事に遭遇しても、
「あ、これは 『あれ』 ね」
と既知に還元して説明できてしまう人間は、たしかに驚くことが少ないだろう。
けれども、その代償として、そのような人は決して「未知」に遭遇することができない。


「驚かない人」は自分の前にある現実を現実としてそのまま受け入れる。
だから、どのような偶然によって、その現実が現実になったのかを
探ろうという気にならない。



一方、「驚く人」というのは、「この現実とは違う現実」を生きる可能性も
あったのだということを想像することができる。
「この現実とは違う現実もありえたのでは・・・」
と思えるからこそ、目の前の現実に
「何か、ちょっと変かな」
という違和感も覚えるのである。
だから、世界が「今のようではなかった」無限の可能性があることを感知している。



さて、ここで驚天動地の大事件が起きたときに 「肝を潰す」 のはどちらだろう。
より適切に対処できるのはどちらだろう。
当然、「驚くこと」に慣れている人間である。
というのは、この人にとって「驚く」ことは主体的、能動的に選び取られた
世界とのかかわりの基本姿勢だからである。
だから、「驚く人は驚かされない」。


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この部分を読んだとき、私は自分が「驚かない人」でいることに
安住していることを指摘されたようで、心が痛かった。

意識的に鈍感になることで、感情を波立たせないように、
そうすることで自分を守ってきたつもりだった。


そうして「驚かない人」を演じてきた自分が、きっと「驚天動地」の大事件が
起きたときには、きっとパニックを起こして自分を守りきることができない
ことも、どこかでわかっていた。
だから、この文章は私にとって痛かった。



そしてさらに、「何か、ちょっと変かな」 という違和感を感じる力も
弱っている気がしている。
だから、固定観念に縛りつけられて、いろんな可能性に思いを
馳せることができなかったりしていることにも気づかされた。



今からでも、少しずつ「驚ける人」になれるよう心がけたいな~
と思えたのは、ちょっぴり進歩かな。
だけど、けっこう小心者の私。
実行に移せるかどうか、暖かく見守っていてね。