今日は、義祖母の命日だった。


しかし、義祖母とは、血の繋がりがない。

義祖父母の所は、子供に恵まれなかったので

実父の実祖父母の所から実父は、養子に出されたのだった。

ちょい 難しんだけど・・・

義祖父も子供が出来ないという事で養子にきた。

が・・・その後、実祖父が生まれた。

なので、義祖父が戸籍上では、長男。

実祖父は、次男になる。


それを知ったのが一緒に住む前だったかぁ・・・?

でも、昔から義祖父母の事は、大好きだった。

血の繋がりがないとわかっても大好きだった。

知った時は、それなりにショックだったけど

でも 子供の考える事、おじいちゃん、おばあちゃんが母方いれて全部で6人。

だから うれしいとしか思わなかった。


それでも たくさん可愛がってもらって色んな事を教えてもらって

大事にしてくれた。


義祖父は、私が小学生3年のときに亡くなった。

その後、しばらくして義祖母と一緒に住む事になった。

義祖母とは、10歳から15歳まで姉と一緒に3人で生活した。

両親とは、それまでの10歳までしか一緒に住んでいない。

私は、15歳からは、一人暮しを始めた。


その頃、両親は、仕事が忙しく夜も遅い。

両親の仕事場に義祖母との住居があったために

日に1回は、親の顔を見るという感じだった。


義祖母が3度のご飯を作ってくれていた。

おばあちゃんだから洋風なものは、出てこない。

いつもなんか和食で同じようなメニューで

私は、ストライキを起こして ご飯を食べなくなった事もあった。

今にして思えば、体にいいご飯をイッパイ作ってくれてたのに。。。と

今なら思える。


毎朝、具沢山の味噌汁で卵が1つ入ってる。

丹念におダシをとっての味噌汁は、とても美味しかった。

炊き込みご飯に茶碗蒸しも大好きだった。

今にして思えば、おばあちゃんは、お料理上手だったのだ!

習っておけばよかったと後悔する。

もう、あの味を堪能できる事は、ないな。


働きものの義祖母は、あの頃でもう65歳くらいだったと思うけど

家の中では、内職をしていた。

いつも内職の手を動かしながら TVを見て笑っていた事が

思い出される。

とてもプロレスが大好きだった。大声あげて応援してたなぁ~。


そんな義祖母とも私が高校に進学するために一人暮らしを始めると

なかなか、会う機会も減り、成長するたびに祖母との距離が

広がっていった。


そのうち、祖母も一人暮しをするようになった。

たまに遊びにいくと、たくさんご飯を作って待っていてくれた。

昔、食べた懐かしい味。

やっぱり、忘れられない。


血の繋がりがなくても あんなに美味しいものを

たくさん食べさせてくれて 愛情を与えてくれた。

それに素直に甘えることもできた。


義祖母は、次第に痴呆症が始まり、

最後は、介護施設でお世話になったけど、

施設では、呆けているんだけど、いつも笑顔で洗濯物を干すのを

手伝ったりしていたようだ。

最後は、誰が来てもわからなくなっていた。


そして、最後の時を迎えた。

その日は、朝、突然目が覚めた。

蚊の鳴く音で朝5時に目が覚めてしまった。

起きて、蚊を探したけど、見当たらない。


そして突然、携帯電話が鳴った。

祖母が入院している病院からで最後の時を知った。


いつもなら、携帯電話が鳴ってもわからなかったと思う。

枕元には、置いてないから・・・。

きっと、祖母が知らせてくれたんだと思う。






ありがとう。おばあちゃん。

血が繋がってなくても いっぱい愛情をもらったよ。


もし、おばあちゃんが生きていたら

きっと、唯一、私の今の気持ちを理解してもらえる良き相談相手になってただろう。

子供に恵まれない気持ちを共有出来たに違いない。

「おかあさんもねえちゃんもすんなり子供が出来たからわかんないよね~~」 って

笑ってあの笑顔で励ましてくれたに違いない。

いい茶飲み友達になれたと思うよ。


もし、これから血の繋がりがない子供を育てる事になったとしても

ちゃんと やっていける自信があるよ。

おばあちゃんがしてくれた事をしたらいいだけだもんね!!

おばあちゃんがいいお手本だよ。


それだけでおばあちゃんの存在をありがたく思う。

あなたの生涯は、無駄ではなかったという事です。



色んな選択ができる不妊治療。

祖母のような選択も出来るんだと思う今日この頃です。