やや混雑した電車で
前に座る70代後半の男性は
電話をかけていた。
おそらくメールは使わないのだろう。
少しくたびれた、汚れたジャンバーと運動靴。
野球帽をかぶっている。
持ち物は、小さなバッグと大きな紙袋。
紙袋は新品で、中には買ったばかりのお菓子の箱が2つ重ねて入っている。
電車の中で電話をかけるなんて非常識な客だ…と思った。
目の前に座って大声で話していて迷惑だ。
「おう、今、千葉まで来たぞ。あと1分で出る。そこの駅まであとどのくらいだ?」
「ゆうすけとあおいは元気か?会うの久しぶりだからな。大きくなったんだろ?」と相好を崩す。
(電話の向こうは男性の声が漏れ聞こえていたので、おそらく息子と会話していて、ゆうすけとあおいは孫かと思われる)
「正月も来ねえからさあ。連休だから来たんだよ。」
「え?え?あ…うん…あ、うん」
そして電話は切れる。
電車は走り出す。
しばらくして、その車内で、その男性は、また電話をかける。
「おう、ばーさんか?ワシな、今、千葉まで来たんだけどよ、あと1時間くらいで着くらしいんだけどよ、会ったら土産渡して、すぐ名古屋けえる(帰る)わ。」
ん?千葉の郊外から名古屋にとんぼ返り?
「いやさ、泊まるところがねえってんだ。」
「仕方ねえだろ、泊まれねえって言われちまったんだから。」
「ああ、もう、土産も持って帰るか?せっかく好物持って訪ねてきたってのによ。」
「…ああ、じゃあ、おまえから聞いてくれよ。」
電話が切られると辺りは静寂に。
男性はしばらくうつむいていたが、ポケットから切符を取り出しじっと見る。
7000円を越える片道の乗車券。きっと東京駅までは新幹線で来たのだろう。特急券も4000円ほどしたはずだ。
時間にしても、乗り換え時間を含め、かれこれ4時間は越える。いや、名古屋駅までの時間もあるはずだから、もしかしたら5時間くらい…。
「おう、どうだった?何て言ってた?」
奥さんにかけているのだろう。
「え?出ない?電源が切れてるって?さっきは出たぞ。」
「うん、うん」
「いっそここから降りて引き返すか…」
「いや、そこまで行ったらって言ってもよ、無理だって言われちまったんだからさ」
もはや最初の勢いはなく、あんなに大声だったのに、溜息をいくつもつきしょんぼりとしている。
孫たちはどう思うのだろう。
せっかく来てくれたおじいちゃんがすぐに帰ってしまうのは、父親が追い返したと知るのだろうか。
それとも、おじいちゃんの都合にされてしまうのだろうか。
どうにもやるせない。
なぜ遠くから訪ねてきた父親をすぐに追い返すのか。
その理由が何かあるのかもしれない。
けれども、居合わせた乗客にはわかりえない。
これからまた名古屋まで帰るであろう男性は、迷惑な客ではなくなっていた。