ギュットパシャリ
たまにムネを掴まれた音楽に出会います。
ただそれを詩的に表したり、言葉にしたとたん面白くないものに変わってしまう。
同じように僕達がいつも過ごしていてその景色を写真に収めてもまったくその時と同じ感触がしない。
でも人はなぜか感動すると、その時の光景をパシャッと撮ってしまう。
ちなみに、僕がいつも写真を撮るときはあまり何も考えない。
機械作業的に撮るのとは少し違ってどこも注意して見ていない感覚。
僕には、生まれてすぐに亡くなった祖父がいる。
祖父のことは、名前と膝に乗せてもらい宴会を楽しんでいる祖父の下あご程度しか覚えていない。
だけれども、誠に勝手ながら、僕は祖父の生まれ変わりだと心のどこかで信じている。
本当に勝手だけれども許して欲しい。
そして、生まれ変わりの僕は当たり前のように、1970年の大阪万博へ出向く際に購入したカメラを久々にガラスのケースから取り出してみた。
露出計は電池切れ。しかも、電池を抜き忘れていたので腐食している。
なんて馬鹿なことをしてしまったのだ。
この間、そのカメラを職人の下へ持って行き、職人に、僕がそのカメラを1960年から使っていることを告げた。
そして職人はその事実をすんなりと受け入れた。
25年ぶりにカメラは再始動した。
あぁ久しぶりに聞くこのシャッター音。
50mmの単焦点のレンズから見えるものは、いつもとはまったく違うものに見える。
なんだか、胡散臭いと思いながらカメラを見ていると、万博の雑踏を歩いたことを思い出した。
そして僕は、太陽の塔を横目に、娘の為にアイスクリームを買いに走っていた。
だけれども、小津安二郎も愛した50MMの単焦点だけあって、レンズ越しに見えてるものと実際の見えが決定的に、違ってもそれがまた違う事を考えさせてくれる。
そして記憶は書き換えられて、僕は祖父の生まれ代わりをこうやって公衆の前で宣言することができるのだ。
写真が過去を物語るものだけではなくて、未来へと続く窓口になっているにも気づかされた。
そして人の記憶というものは本当に優柔不断で、頼りないものなんだけれどもすごくハッピーに出来ているんだなぁなんて事をぼんやり、考えていた。