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☆志村喬 

明治38年1905年兵庫県朝来市生まれ 30歳まで近代座や新声劇で芝居に打ち込み、新興キネマを皮切りにマキノ、日活、松竹を経て昭和18年1943年東宝へ移籍。 ここで運命的な黒澤明監督の「姿三四郎」に出演、三四郎の敵役の柔術家 村井半助の役を演じる。 敵対する柔術側乍ら、人間的厚みのある人柄の人を演じ単なる新生柔道×古道柔術の単純構図に終らないドラマ性を演出する黒澤明の意図に見事に応えた。 以来、黒澤明監督作品全30作中、出演していないのは数本のみ という位に起用される。 黒澤の脇役の活用法はいい演技をしたら次作では更にいい役に起用する、俳優を励ますような起用法により俳優のスキルアップを図らせる合理的且つ人情的な措置をした点であった。その代わり本人にヤル気がないとみると、即座に切って棄てる、いい役とは所謂、いい人…という意味では無く悪役でも斬られ役でも時として通行人Aでもなんでもいいのだ。カメラのフレームの隅々にまで目を配る黒澤の映画論の真骨頂だ。 そんな志村を主役に添えたのが、昭和23年1948年製作封切りの「酔どれ天使」。 黒澤の名タイトルだが、愚直な町医者真田に志村を据えた。 酒好きで、診察室にも酒瓶を持ち込む様な愚鈍極まり無い町医者で様々な人が診察に訪れるが、肺病を病んでいるが地道に治して行けばきっと治ると真田が励ます少女には当時正に"天使"的な華族出身の女優久我美子が起用され話題となった。 その健気に頑張る人間と入れ違いに入ってくるのがヤクザで、当時デビュー間もない三船敏郎だ。 少女と同じ結核を病んでいるがシマを取り仕切る親分がムショ暮らしの中代理で取り仕切る若手の筆頭の三船が抗争の中でピストルで撃たれた手の治療で訪れたのだ。 が、そんなヤクザにも慌てず騒がずズケズケと説教を滴れる真田は、麻酔も打たずに容赦なくヤクザ松永の手の中の弾を取り出す、口笛を吹き乍ら…。 手術の序でに真田は松永に聴診器を当てて松永に結核が相当進んでる事を宣告するが、無鉄砲な松永は自棄になって益々酒をあおり、結核に歯止めはかからなくなっていく。 こんなストーリーでミラクルヒューマンなドラマを成功させる。次に黒澤が取組んだのは"動"の人間ドラマの次は'静"のドラマとばかりに東宝争議で揺れる自社に背を向けて他社である大映でメガホンを取った「静かなる決闘」であった。 ここではヤクザとは対照的な若きインテリ医師藤崎を三船敏郎が好演して、演技者としての幅を広げ最大限のアプローチをする。 志村もその父親役で出演して、やはり前回の真田とは対照的な物静かな父親医師を演じた。 こう言った俳優の魅せ方にも黒澤は長けていたと言っていいだろう。 志村は勿論、黒澤明の専売特許ではないので他監督作品にもかなり出ているが、昭和30年製作封切りの丸山誠治監督「男ありて」のプロ野球チームの老監督役が忘れられない。 澤地久枝が書いた志村喬の伝記もタイトルがこれだった。 志村は昭和57年1982年にこの世を去るが、黒澤明監督作品の最終出演はその2年前の「影武者」で本当の端役だったがキラリと光る起用をして黒澤がまるで其れ迄の労を労っているかの様な、活用法であった。