灰田勝彦 ①


 通称ハイカツ。戦前、戦中からの数少ないアイドル。ただし、軍事優先の風潮だった戦中でアイドルと言っても今の様なメディア優先ではなくあの頃はアトラクションと呼ばれた演しもの(だしもの)に出演するとハイカツー💦と言う黄色い声援が飛ぶと言った程度のものだったが、当時の流行歌手で女の子が声援を送れる歌手はそんなにおず、ハイカツのほかでは歌手ではなくお笑いの清水金一、ヴァイオリニストでタンゴバンドのリーダーだった桜井潔辺りがミーハー族のターゲットだったと故色川武大が記している。

 そんな灰田勝彦の数々の流行歌を振り返るこの企画。私はこの人こそ現在に繋がるシティポップの鼻祖とも言えるジャンルの確立者であると思う観点でその証明を示していきたい。

 その陰には灰田の曲を書き編曲と言うスタジオワークをこなした実兄の灰田晴彦(戦後に有紀彦と改名)の存在も欠かせないが、ここは飽くまで弟勝彦のディスコグラフが中心である。


 灰田は広島出身の医師勝五郎と京都北野天満宮の宮司の娘の母千鶴子とのあいだに1911年明治44820日にハワイホノルルで生誕した。

 三男二女の末っ子として。


 作曲家の兄晴彦は勝彦より二つ上の明治42年に生まれている。

 兄晴彦はハワイアン音楽に若い頃より目覚めて日本ではそれを広めた祖としての功績がある。


 灰田一家が日本の土を踏んだのは1922年大正11年、父勝五郎が1920年大正9年に過労で亡くなり母千鶴子の意向で広島へその納骨に来た時だった。広島市西福寺に亡父の墓を建立し納骨を済ませて、暫くは滞在してからハワイに戻る予定であったが、翌年1923年大正128月、6人の母子は帰国の準備もすっかり整えて横浜子安の知人宅の離れに仮寓し、ハワイ帰りの便船を待っていた。  

 明日いよいよ乗船と言うところまで漕ぎつけたとき、その晩帰宅してみると、離れに置いてあった荷物一切、とくに酷かったのは乗船券からパスポートまでをゴッソリと空巣にやられていて、一家は呆然と立ちすくんだ。 

 更に91日、悲運の関東大震災に見舞われてしまう。こんなおっかないグラグラ揺れる頼りない日本はごめんだ、早くハワイへ帰ろうと言い合っていたが、ハワイへ帰ったところで主人がいるわけでもなし、これも日本へ落ち着けという仏のお告げでは? と言う見舞いに来た親戚の言葉に慰められて母千鶴子は帰国を諦めた。

 この決断が灰田兄弟のその後を決することにはなるのだが、この時兄の晴彦は「日本ではやはり言葉の上で不便があった。早くハワイへ帰りたい気持ちがどうしても強かった。」

 灰田兄弟は父の崇高な医師を継ぐべく兄も弟も獨協中学に進学する。

 獨協は獨逸協会中学つまりは医師を志す子弟が獨逸語を学ぶ為の学校であった。

 兄晴彦はここでハワイアンバンドを結成しここに日本初のハワイアンバンドが結成された。

 同級生たちからは評判よろしくウクレレを教えてほしい、との要望が殺到する。

 気を良くした晴彦はハワイアンサークルでウクレレ教室を開くのだがこれが学校側に知れることとなり学生課の教師に呼び出されて注意勧告を受ける。学校では教えない音楽を他人に広めるとは何ごとか💢と言う理不尽な物言いに穏健な晴彦も流石に怒りを抑え切れず、音楽を教えたら不良学生とはどう言う事ですか?と反論したが、ハワイアンなど教えるのは堕落の第一歩だ‼️と言う誠に了見の狭い偏屈にすっかり閉口して反論は取り下げたが、学校でおおっ広げにやらない代わりに自宅などでその活動は続けたのだが、多分学校側にはそれも筒抜けだったようで終始学校からは睨まれ続けたと本人談である。

 戦後、神田共立講堂で催された獨協アーヴェントコンサートの際には、チャリティの募金に協力してくれ、と母校から言われた時は隔世の勧があったと痛快事として語った。

 兄晴彦はそんな獨協中学から中央大学へ進みハワイアンバンドの我が国の嚆矢として俄然注目を集めていくのだが、弟の勝彦は兄の後を追う様に獨協中学に進みやがて立教大学に進む。

 立教大学ではサッカーに夢中になって学生生活を送っていたが母千鶴子は子供の躾には人一倍厳しく、且つ非常な縁起を担ぐ面があり、或る時占い師に勝彦を見せたときその人相見は「この坊ちゃんはよほど気をおつけにならないといけません。うまくいくと成功しますが一旦こじれるとちょっと手が付けられなくなる。」と出されたと言う。

 うまくいって大成功な人生なのは我々がよく知るところだが勝気な性格は数々の武勇伝として伝えられている。


 立教時代には破れ傘の権次なる喧嘩好きが毎日校門で張り込んでいた。こやつは立教に灰田と言ういい顔のがいる、と言うだけで因縁を付けにきたのだが

「おめえが、灰田か」

「ああ。俺が灰田だ。それが悪いか?」

「悪い」

「何を?」と、一発でノックアウト❗️させた。

 又、歌手になってからも高峰秀子と銀座を歩いていたらひそひそと聞こえよがしに囁く56人の集団ゴロ「おい。あれがハイカツかよ。若僧のくせに女優など連れやがって、いい気なもんじゃねぇか」これをすれ違いさまに言ったのがいけなかった。前を兄の晴彦も歩いていたのだが、嫌な予感は的中して振り返った時にはそのゴロ全員が鋪道にオネンネしていた。

 ステージやアトラクションでも度々野次が飛んできたのも通例でそんな時は一瞬、場が白ける。勝彦は"大抵"の場合はこうした輩をステージに引っ張り上げてポカポカとやってしまった。

今なら暴力沙汰と取られ兼ねない事態だが時代は未だそんなものは日常茶飯事と言った悠長な時代である。

白けた雰囲気を勝彦はエンタメにしてしまうムードを作れた。「皆さんは金を払って僕の歌を聴きに来た、そうでしょう?それともこ奴のヤジを聞きに来たのかな?」マイクの前で一席ぶつと「そうだ‼︎俺たちはお前の歌を聴きに金を払って来たんだ。」これで客席のムードは一気にヒートアップさせると言うこんな迫力がある舞台を魅せられたら下手な映画なんかよりも余程面白い🤣

 弟勝彦は時には思い上がった生意気な奴、と他人の目に映ったこともあったが、それはスターによくある意気がりではなく寧ろ勝彦の地のままをいき、あるがままを素直に晒していた結果だったと言うのが周囲の言葉として評されている。

 勝彦自らハワイ生まれの江戸っ子だよ、と言わせしめるほど周囲も惚れ惚れするほどの一本気で情にモロいタイプであり勝彦は立教出身なのに何故か勝彦の行くところ明治大学応援団が護衛で歩くと言った珍景があり、これは明治大学応援団長が灰田の気骨に惚れ込んでそんな役目を勝って出たと言う事である。

 立教大学の三年先輩でやはりジャズバンドを立教時代から結成していた歌手仲間の1人ディックミネも灰田の事をトシ坊と呼ぶ程仲が良かった。喧嘩っ早いこの2人の武勇伝は余り残されてないがさぞかし凄かったろうと予想させる。

 さて、兄晴彦のハワイアンバンド"モアナグリークラブ"1928年昭和3年夏に結成されたが、弟の加入は1930昭和5年の秋頃だと記録にあるが本格的加入は翌193141日と会報に記録がある。当初からウクレレ兼ヴォーカルであった。


 勝彦はそのリズム感と達者な英語力を見込まれて歌手に引っ張り出されたとの事である。

 おまけに当時どのシンガーにも真似の出来ないファルセットが使えると言うのは武器に等しく凡ゆる可能性を秘めていたのだが、当の本人は当初はサッカー⚽️に夢中で渋々駆り出されてきた感は拭えず、音楽そのものには無関心であったと言う。

 モアナグリークラブとしての初録音は昭和6年のパーロフォンレコードに3曲が一番始めで以降インストや無名時代の有名歌手の伴奏など中にはスマッシュヒットした盤もある。

 1934年昭和94月リリースのコロムビアからは中野忠晴の唄で♫南国の夕映 が図らずもヒットしたがこれはコロムビア楽団に晴彦がスチールギターで客演したものである。

 又私が所持している盤の中にもビクター盤で1933年昭和82月の新譜で小林千代子唄うところの♫美はしの今宵 ではレーベルに"ハイタハワイアンバンド"とわざわざクレジットされるに至る。名実共に有名バンドとしてメインストリームを歩み始めた兄晴彦であった。


 19351215日、兄晴彦は鎌倉の東大教授の娘綾子と華燭の典を挙げた。

 きっかけはスチールギターの個人教授を晴彦が綾子にしたことだったようだが、大学教授の父は当初は反対をしたが、やがて晴彦の熱意にほだされたのが結婚への弾みとなった由。

 さて、我らが弟勝彦は立教大学在学中の三年生の時、昭和912月リリースのポリドール盤の流行歌♫浅草ブルース と言うサトウハチロー詞、初代コロムビアレコーディングオーケストラマスターの紙恭輔が曲編のボーカルデビューを飾っている。

 服部良一の日本初のブルースに先立つこと実に二年以上も上回る速さで和製ブルースを灰田が唄っていた事になるが、流行歌史にこのレコードが残されていないことからきっとブルースとは名ばかりで、ヨナ抜き単音階の流行歌なのであろう、と予想される。

 勝彦はこの立教大学在学中にポリドールレーベルに1934年から1935年までの約1年間に910曲の曲をリリース、同時進行的に大阪のレコード会社タイヘイから1曲、ニットーから35曲、やはり関西系のテイチクレコードからは612曲がそれぞれリリースされている。

合計1828曲が世に出ている。

最後のテイチクレコードは明らかに立教大学の先輩ディックミネの手引きであろう。

その学生時代の所産である時代の灰田の唄を記録したレコードは残念ながら後年のレコード復刻リストからは悉く漏れてしまってる様で、貴重な所産であるがこの時代のレコードは例えば市中に出回っていないのか?と言うとそうでもないし、灰田のレコード解説として名高いみなみ一郎氏などは明らかにこの時代のレコード評をレコードコレクターズ誌に書いておられるのであるのはあるのであろう。

私も僅かに2枚だが、この時代の盤を持ち併せていたので早速聴いて頂こう♪

時系列順だと1934年昭和912月リリースのテイチク盤♫コロラドの月 と♫リリウエ でバック演奏を兄晴彦率いるモアナグリークラブである。

 レコード盤のレーベルには勝彦の名は無くモアナグリークラブ名義である。

 本回は先ず後者の♫リリウエ を聴いて頂こう♪


https://youtu.be/Hjg4-22H3qw


SP盤は初期テイチクレコードでこの期のテイチク盤は材質が非常に悪く音も悪く聴き取り辛いかと思うが我慢願いたい。

それに引き換え同時期のメジャーレコード、ポリドールは材質が滑らかで音質も素晴らしく板起こしでもこんなに違うのか?と思うほどいい音で聴ける昭和109月リリースの♫追分がらす は流行歌の名士となっていた作詞家藤田まさとの手掛けた、またたびものの流行歌であり映画音楽楽士から流行歌界に転じた近藤政二郎が曲編を手掛けている。

灰田もバイトの身バレ防止から作詞の藤田まさとの藤田と本名の稔勝の稔を合わせた"藤田稔"名義でレーベルには刻まれている。

評判上々の流行歌で氷川きよしも真っ青の演歌調となっている。



https://youtu.be/XBrJ9JYuvFc


1936年昭和113月、弟勝彦は立教大学を卒業、ビクターレコードに入社。翌4月リリースのデビュー盤は♫ハワイのセレナーデ 灰田の生涯に渡る作詞家佐伯孝夫が早くも作詞を担当して作曲編曲は兄の晴彦が手掛け演奏でもメイン楽器スチールギターを兄が弾いた。

ビクターの功績、戦禍でプレス工場は焼かれたがマスター音盤は失わなかった。

 そのおかげで大半のビクターレコードはマスター盤からの復刻が可能となり綺麗な音での復刻が可能となった。因みに終戦後プレス工場を戦災で失ったビクターにライバル社のコロムビアが救いの手を差し伸べてプレス工場をビクターに貸したという美談が残されているがコロムビアはビクターとは逆でプレス工場やスタジオは焼け跡に残ったがマスター盤は戦災で焼かれた。

 だからコロムビアの戦前の貴重なマスター盤は存在せず復刻の際には全て板起こしと言う状態のいい普通のSP盤をミキシングしてスクラッチノイズを極力抑えると言うやり方でしか方法がないのだ。皮肉な結果である。

 灰田勝彦のこれからお送りする大半の流行歌の殆どはこのマスター音源の恩恵に預かれることとなる。


https://youtu.be/d6f5CEx1yhA


デビューから4枚目はデビュー年昭和11年の7月リリースのハワイアンのカバー曲をモアナのメンバーで誰よりも多くの灰田勝彦作品を書くことになる永田哲夫が手掛けた。

 傑作♫海越えて は正に夏のリリースに一役かった。


https://youtu.be/ls8XZLpRAQg


翌月、灰田勝彦オリジナル作品はモアナグリークラブの永田&晴彦が作った和製ハワイアンであり♫海越えて に続くシングルとして灰田勝彦のもう一つの魅力であるファルセットを存分に発揮した♫海は招く🏖

 


https://youtu.be/lN7MIK8dSMc


佐伯孝夫同様生涯灰田にヒット曲を書き続けたビクターレコードのヒットメイカーだった東日本大震災による東電福島原子力発電所の被爆地福島県双葉郡浪江町出身の佐々木俊一の初の灰田歌謡はヒットには至らなかったが、後に歌詞を検閲で大幅に改変を命じられるほどの印象を残した♫想い出の瞳 だった。翌121月リリースは業界や玄人受けする捨てがたい一曲である。

灰田も佐々木俊一をオヤジと呼ぶ勝ち気な性格も佐々木には唯一頭が上がらなかったと言う。


https://youtu.be/bmTU-2WpWt8



 灰田は得意のハワイアンの他に演歌調、そして流行歌をデビュー以降レコード化したが徐々に洋画系主題歌の日本語カバー曲も手掛けるようになっていく。

 RKO映画は当時エッセンシャルなフレッドアステア&ジンジャーロヂャースの名コンビのダンス映画が全世界的に席巻していたが、日本におけるアステア映画のテーマ曲を灰田勝彦がカバーをした。♫ネヴァーゴナダンス 踊りは真平 上杉定の編曲 1937年昭和122月リリース。



https://youtu.be/Z8yP2sKsWuY


その2か月後の4月リリースはA面をプリマドンナ小林千代子とのデュエット♫ホントかい

スロウナンバーで灰田もいつになくイビツに朗らかに迫る。この時点で灰田にまだ演技力は備わっていなかったのだろうか!

B面の♫しょってるわ は童謡歌手古筆愛子とのデュエット A面とは打って変わってアップテンポでコミカルチックな仕上がり。

 両曲は共に近藤春雄の詞 前年渡辺はま子のデビューでエロ歌謡を手掛けた細田義勝。

灰田勝彦の新境地とも言うべきコミックソング。未復刻の両曲をお楽しみください♪


https://youtu.be/yhyaLj5mTlw


 続くシングルは又もや洋画「踊る1937年」のテーマ曲♫薔薇色のえくぼ 

 1985年にNHKFM2週間に渡って放送された"日本ジャズソングSP"で服部良一がゲストだった時にこの曲が掛けられたのだが、アレンジがまるでなってない‼️と珍しく辛辣なことを仰っていたのを昨日の事の様に思い出す。

 因みにこの編曲者は伊藤翁助だった。


https://youtu.be/TYRHkUjKRBE


 翌6月、灰田勝彦初のヒット曲がリリースされる。

 佐伯&佐々木による純演歌調の曲で♫雨の酒場

灰田にしたら決して本意ではなかったはずだが、オヤジ(佐々木俊一)にそろそろこう言うのも良い頃合いだろうと言われたらイヤとは言えなくてとは勝彦本人の弁。

 佐々木らしい気遣いからか、伴奏に兄晴彦のスチールギターをフィーチャーしウクレレをぶつけると言うモアナの編成が存分に生かされた。

 実は演歌にウクレレは遡る事6年前に古賀政男が♫酒は泪か溜息か でエヴィデンスされてそのもの哀しさが奇妙にフィットしていた事からギターでなくウクレレのストローク伴奏がその頃から演歌調流行歌に編曲され始めていた。

 しかしスチールギターがこれほどまでに演歌の伴奏に適していることは戦後マヒナスターズで灰田晴彦門下の和田弘が証明して見せたことが既に歴史が語っている。

 この♫雨の酒場 は戦後のマヒナスターズサウンドの引いては昭和40年代のムード歌謡の魁となったと言っても過言ではありますまい。

 オリジナル盤からどうぞ。


https://youtu.be/6sM7At8Yr_g



 翌7月には「青春の夢」が細田義勝作曲のオリジナルで、外国曲のカバーでジャズピアニストの平茂夫がアレンジした「空は晴れて」♫ハワイアンパラダイス に永田哲夫が詞を付けた「常夏の楽園」、そして平茂夫のオリジナル「悲しき宵」がリリースされた。

 そして8月、終戦直後に新録されてスマッシュヒットした♫真赤な封筒 のオリジナル盤が先ず吹き込まれリリースされた。

 真赤な封筒つまりはラブレターの💌ことだがこの辺も永田哲夫のセンスが光るが、この曲は元々1919年にアメリカで出版された♫オーバージンゴ が原曲であった。

 灰田勝彦の演技力が徐々に付いてきているのが判る。女性のシナを使った表現は恥じらいを端的に表現しているが戦後版の方が更にその表現力に説得力があるのは当たり前で、恋愛遍歴を重ねた結果であろう。

 間奏の晴彦の弾くギターソロは圧巻でありアメリカ製流行歌を見事なハワイアンに仕立て上げた。

 この頃晴彦はリッケンバッカーのエレクトロSGを使用していたのだが、同じリッケンバッカーのエレキギターでこのソロをなぞったらもっとロック仕立ての同曲になっていたであろうと想像するのも又楽し。

 因みにそのB面にはハワイアンのスタンダード♫アロハオエ が我が国で初めて紹介された。


https://youtu.be/_O1l7il2dEQ


 同じ8月に続くシングル盤が間髪入れずにリリースされた。

 両面に渡り灰田がボーカルを取る事はそうそうは無く、そうなることは人気者の証であったが、この盤は両面とも昭和初期からの名士、堀内敬三が曲を書いた。浅田飴本舗の御曹司にして作曲家と言う輝かしい経歴の彼は若き日からアメリカ製流行歌をよくよく研究し昭和3年に我が国初の洋風流行歌♫君恋し を作曲し当てた。

 その堀内敬三が珍しく入魂の作品を書きビクターの若きホープに贈った。

 評論家みなみ一郎は"松竹同名映画主題歌、堀内敬三作曲のワルツが素晴らしい出来、灰田初期の絶品"と手放しで褒めた。

 ♫神秘な男の唄


https://youtu.be/OzLATdmk3vQ



 次のシングルもシリアスな灰田勝彦の一面を臆面もなく発揮した佳品でありこちらはスマッシュヒットしたことが伝えられている。

 それにしても灰田勝彦の声は独特で如何に個性的であるかは初期のこの時代から既にこの個性であり当時聴いた人々の狼狽振りがよく判るではないか。今聴いてもこんな声はそうはいない。

 中性的で世界的にも余り類例がない。

 シャンソンの代表者ダミア、或いはアダモ辺りかアメリカのジミースコットと言ったそっちの変声シンガーの部類に入りそうだが日本での評価が実は一番低いのが残念である。


 ♫あゝ東京は夜もすがら


https://youtu.be/zxn29Nm4C5Y


 昭和12年、デビュー2年目はこうして聴いてくると実に様々なジャンルの歌を歌っており新人歌手へのある種の実技試験に思えなくもない。

 ビクターはそう言う点で誠に様々な作家陣が揃っていた事の証左に他ならない。

 ディスコグラフを見ていると戦時歌謡がこの時期から徐々に増えていく。

 この年77日に始まる盧溝橋事件が第二次世界大戦の口火となる日中全面戦争がいやがおうにも日本国内に於ける好戦気運を煽っていく。

 同時に流行歌界でも戦時歌謡或いは軍歌が多くなって行き少なくとも流行歌手は戦時歌謡或いは軍歌を録音することが不可避になっていく。

 有名な話ではディックミネ、淡谷のり子という洋楽派は早々とこうした楽曲を良しとせず録音しない事を表明した。

 反軍思想が加速度的に取り締まられる中こうした反軍的態度は当然の事ながら当局から監視下に置かれることとなるが、己れの信条のみで反軍姿勢を貫くこうした態度はどんなに監視されてもそこからは何の収穫も得られるはずもなく、寧ろ公式に反軍思想を公言した方が身の上的には安全的行動である事は、彼ら彼女らが軍歌は唄わずとも満州方面への慰問に駆り出された事象に象徴される様に、彼らは反軍思想ではなく"反軍歌思想"であることにより辛くも官憲側の魔の手から逃れていた事になる。

 こうした反軍歌思想派と思われた灰田勝彦は逆に積極的に戦時歌謡或いは軍歌を吹き込んでいった。

 ここがディックミネや淡谷のり子らとは違うところで生まれがハワイなだけで血は純血の日本人でありあの時の時流に乗り皇国日本の思想に忠実に迎合して行ったと思われる。

 昭和1210月リリースの♫僚機よさらば は既に復刻されているにもかかわらずSP盤はネットオークションでも¥高値で取引され続けている。

 マスターラッカーからの復刻盤で綺麗な音で聴ける音源からどうぞ。


https://youtu.be/8wlGEahTYUQ


 昭和12年は灰田勝彦はPCL映画(現東宝)伏見修演出の「たそがれの湖」の中の挿入歌予定だった♫若い二人に春ばかり を録音したものの当局の検閲を通らず発売禁止となり同じタイミングで♫恋の東京さようなら も発禁処分となった。

 主題歌の♫たそがれの湖 は発売に至る。

 12月に入り初の主演映画東宝映画「人生競馬」の撮影に入ったところで召集令状を受け取る。

 映画は翌月に早くも公開される。

 召集令状を受け取った翌日にはレコード各社の共作となった♫愛国行進曲 をビクターの徳山環や四家文子、中村淑子と言ったクラシック出身の歌手たちに混じり録音した。

 レコードは通例では録音から数ヶ月は寝かせるものだがこの曲については異例の、録ったその月に即発売とされた。

 年が明けて昭和1319381月、「人生競馬」公開。

 ビクターから洋楽のカバーである名作♫いとしの黒馬(あお)よ リリース。

 洋楽のカバーであるはずなのに軍馬を唄った珍しいアプローチだが雪に覆われた悲しい愛馬を思いやる灰田の歌唱に胸を打たれるのと途中軍歌調にアレンジされた箇所も哀愁を誘う。

 鈴木静一の編曲は抒情歌と軍歌の見事な融合化に成功している。

 戦争色がまだ浅いこの頃だからまだ許された楽曲なのかもしれない。

 五年後の時世ではきっと世に出なかった逸品であろう。

 本回ラストナンバー ♫いとしの黒馬よ



https://youtu.be/owyHqzsjk0I


 次回をお楽しみに(^O^)/