☆トミードーシー楽団時代.1

ハリージェイムス楽団との寂寥的な別れを踏まえてシナトラは引き抜かれたトミードーシー楽団に早速加わり、1940年1月25日にシカゴから近いイリノイ州ロックフォードでそのデビューを飾る。
 シナトラより数週間早くトミードーシー楽団に参加したコーラスグループ、パイドパイパーズの女声パートを担った後のボーカリスト、ジョースタッフォードは次の様に語る。

「ドーシーがその日のファーストステージで、シナトラの名を告げた時、私達もステージの上に居ました。呼ばれてマイクの方に近づいてく彼を見て、なんて痩せているんだろう!と言うのが第一印象でした。しかし、最初の歌♫My Player  がはじまると8小節を聴いただけでノックアウト、観客も同様で会場はピンが落ちる音さえも聞こえるほどに、シーンと静まりかえっていました。」

 シナトラはドーシー楽団の一員になりきろうと努力する一方、歌の面でも常に向上を目指して厳しい研鑽を積んだ。
 シナトラはトミードーシーのトロムボーンプレイに共鳴し、16小節ノンブレスで吹けたと言う、彼の息の長いなめらかなフレイジングとその巧みなブレスコントロール、そしてスムースな転調などのテクニックを学びとった。
 シナトラは言う。
「トロムボーンで歌の勉強をしたのは僕くらいだろう」
 他にもトランペットのバニーベリガンやジギーエルマン、ピアノのジョーブシュキン、ドラムスの暴れん坊、バディリッチ、アレンジや作曲家ではマットデニス、ポールウェンストン、アクセルストーダル、サイオリヴァーなどソロになってからもシナトラのレコードを編曲するなど多彩なミュージシャンたちに触発されて、シナトラは成長していった。
 1940年2月1日、シナトラはトミードーシー楽団との初録音に臨む。♫ザ・スカイ・フェル・ダウン と、♫トゥー・ロマンティック の2曲である。ともにミディアムスローのナンバーで、滑らかなフレージング、そして今にも壊れそうな繊細さを備えた非常にセクシーな歌い回しだ。キャピトルレコード以降のシナトラしか聴いていない人には、これがシナトラとは信じられないだろう。
 その頃の録音から。ホールで録音されたエアチェック盤から。
 ♫I 've Got My Eyes On You



 シナトラは後に語る。
「ぼくはビング(クロスビー)の大ファンだった。でも、彼のように歌いたいと思ったことはない。と言うのは、誰も彼もがクロスビーそっくりのブー・ブー・ブーイングスタイルで歌っていたからだ。ぼくはもっと違った歌手になりたかった」
 
 シナトラのヴォイスコントロールの成果と言う点ではロイヘミングとデイヴィッドハイデュが共著した「スタンダードの名シンガー」の中でこう述べたいる。

シナトラのドーシーのトロムボーン奏法からのテクニック取り入れは、ちょっとしたポルタメントによって、この優美で滑らかなフレージングを一層滑らか中ものにしたのだった。
おそらく、更に重要なことは、シナトラは自分の歌に、奥深い情感とソフトな魅力を取り入れるためにマイクを最大限に利用したと言うことである。シナトラが書いた文章でこのことについて興味深い事を書いている。
「多くの歌手たちは、マイクロフォンは彼らにとって楽器なのだと言うことをこれまで一度も理解したことははないし、今も理解していない。」
シナトラはこのマイクという楽器を実にうまく演奏した。少しずつ口元に近づけて、ソフトに楽々と歌った。彼はいつも自然で、会話の時のような声のトーンを保ち、決して大声を張り上げることはなかったので、シナトラの歌には驚くほどしっとりした調子がこもることになった。
シナトラこそ、マイク越しのソフトな声を持つセクシャルなニュアンスを、初めて充分に生かした歌手だった。
澄んだ声と躍動的なリズム感をもった、快活で好感のもてるクロスビーは、全盛期にはあらゆる年代のロマンティックな人々にアピールしたが、一方のシナトラは、明らかに、若者たち、とくに若い女性に好まれる声をしていた。たくましく、臆面もなくセクシャルで、若々しくせつなくダウンテンポの曲を歌うシナトラのやり方は、とてつもなくエロティックなものに思われた。
1940年代の或る心理学者の言葉を引用すれば、シナトラは「ある種の、メロディによるストリップショーを演じているのであり、そこで彼は自分の魂を裸にしているのである。」

1940年3月4日トミードーシー楽団の名品の一つが吹き込まれる。
数あるバンドが吹き込んだ新曲♫ポルカドッツ&ムーンビームス どのバンドのレコードよりもよく売れた。




ジミーランスフォード楽団から移籍してきた編曲者サイオリヴァーは2ビートのリズミカルなアレンジメントを提供し、従来のスィートでセンチメンタルなトミードーシー楽団に新たな魅力を加えた。シナトラとの初録音は1940年4月23日にニューヨークで行われた♫イーストオブザサン からである。
 シナトラ自身もバラードが得意だったがこの時期のトミードーシー楽団時代にはスィンギーなナンバーに自信を付けていったシナトラの成長過程が読み取れる。
 サイオリヴァーのジャージーな編曲とバックでサポートするジョーブシュキン(P)とバディリッチ(ds)のプレイが、譜面にとらわれない自由な歌い方を引き出している。



この♫East of The Sun  と同日に録音された♫I'll   
Never Smile Again  は専属コーラスグループ パイドパイパーズを大きく前面に押し出したアレンジで演奏された。
この曲は世界で初めてこの年から始まったビルボード誌のヒットチャートで初の1位になった栄誉となったが、この日の出来にリーダーのトミードーシーは納得せず、1ヶ月後の5月23日に再度録音されることになった。
この時、トミードーシーは「誰かの家で、皆んなが自然にピアノの傍らに集まった感じで唄ったら」と言うアドヴァイスで万事は上手く運んだ。
シナトラにとっても初のミリオンセラーとなった。



この曲のヒットを契機にシナトラの歌手としての注目度が上がって、やがてトミードーシー楽団のシナトラか、シナトラのトミードーシー楽団か、とまで言われるほどにまで人気が上がる。シナトラのトミードーシー楽団入団の翌年1941年5月にはシナトラはビルボード誌の行った学生人気投票で男性歌手部門のNo.1に選出されて、同じ'41の暮に実施されたダウンビート誌の人気投票ビングクロスビーが1937年以来保持してきたトップの座を奪い、続くメトロノーム誌の人気投票でもNo.1を獲得し、その人気は本物となりシナトラ自身も長年の目標であったビングクロスビーの様な…人気を獲得してしまいその本懐を遂げた。
この後に来るリーダー、トミードーシーとの末恐ろしいまでの確執は次回に書こう。
本回最後は1941年2月7日に録音、アクセルストーダルがアレンジした♫Everything Happens to Me    をお送りしてお別れです。
アクセルストーダルとサイオリヴァーはシナトラがソロ歌手となってからもアレンジャーとして起用し続けて素晴らしい仕事を残した。