日光江戸村にて蕎麦を手繰った生徒の話 | はぐれ国語教師純情派~その華麗なる毎日~

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国語教師は生徒に国語を教えるだけではいけない。教えた国語が通用する社会づくりをしなければ無責任。そう考える「はぐれ国語教師純情派」の私は、今日もおかしな日本語に立ち向かうのだ。

 修学旅行で日光江戸村を訪れた際、施設内のそば屋さんで昼食をとりました。御品書きに、「当店一押し」と冠されたていたので、「江戸せいろ」を食べることにしました。お品書きには

 

江戸時代のそばつゆ「味噌味」を再現 必見です  950両

 

とありました。

 「押し」か「推し」かの問題については、別の機会に譲ります。ただ、江戸村が「950両」はないでしょう。「九百五十両」と表記してほしかったです。「必見」もおかしいでしょう。見るものではなく食べるものですから、見るだけではすみませんよね。「必食です」とでもすべきでしょう。

 美味しかったのですが、量は少なかったです。でも、江戸っ子の蕎麦喰いは、小腹がすいた時にさっと食べてさっと店を出るのが「粋」なんだと聞いた事があります。「大盛り」や「特盛り」などと、満腹になるまで食べる奴は「野暮」らしいです。私は「粋」でしたよ。

 隣の席から聞き慣れた声が聞こえてきました。

 

「せいろって何?」

「う〜ん」

 

 声の方を見やれば、そこにはうちの生徒K君とH君が仲良く向き合って席に着いていました。二人はまるでカップルのように一枚の「御品書き」に顔を寄せ合って注文を考え合っています。そこに女性の店員さんがやってきました。

 

店員 「御注文は?」

宏祐君「『せいろ』って何ですか?」

店員 「え?」

宏祐君「あの、僕、『せいろ』って知らないん……」

店員 「ざるです!!」

 

 この時、私は同時に二つのことを感じていました。一つ目は、

 

『H君、キミ、素敵だよ!』

 

と思ったのです。

 初対面の人に対してでも、自分がわからないことに出合った際、素直に教えを請おうとする姿勢。実にそれは、毎日の授業において学習に向かうものと同じだと思います。わからないこと、知らないことが「わかる」自分になりたいという渇望。それが本当に大切なんですね。そういう思いを旅先においても自然と発露させてしまうK君が素敵です。嬉しくなりました。

 二つ目に感じたのは、K君が

 

「あの、僕、『せいろ』って知らないん……」

 

と問いかけたのに、女性の店員さんがK君の「知らないん……」の「……」のあたりで声を被せるように

 

「ざるです!!」

 

とぶっきら棒に答えたのが悲しかったです。店が忙しかったとしても、遠くから来た中学生が

 

「『せいろ』って……」

 

と問い掛けた時、そこに愛がなさすぎると思いました。H君が気の毒でなりませんでした。

 それにそもそも「せいろ」は「ざる」ではありません。せいろ(蒸籠)とは、竹や木を編み込んだ容器状の「蒸し器」ですね。ざる(笊)とは細長くそいだ竹や針金などを編んで作った中のへこんだ器。水を切ったり、不純物を選別したりするのに用います。

 せいろ蕎麦は、昔、蕎麦切りを蒸して食べていた時代の名残らしいです。ザルに載せ「ざる蕎麦」として、海苔を載せたり出汁を高級にしたりして差別感を出すお店もあるようですが、基本的には同じです。せいろにもざるにも載せずに丼や皿に載せて出したら「盛り蕎麦」になります。その意味では、「せいろ」も「ざる」も「盛り」も同じだとは言えます。でも、

 

「あの、僕、『せいろ』って知らないん……」

「ざるです!!」

 

は、お店が客に行う説明としては乱暴すぎますし、正確でもありません。面倒臭がって、さっさと注文を済まさせようとしているとしか思えません。まあ、本人たちは美味しそうにお蕎麦を食べていましたけどね。