10月21日(土)午前10時花壇前・フラワークラブ

1時過ぎに目が覚めた目てしまう。しかし、30分もせずに寝てしまった。起床は6時ごろで、アイビーの散歩後、階段上りとテレビ体操。

8階まで歩き登りで息切れ!

日記の書き方も、時間を記録しておこうと思う。

いま、右足のひざ下の筋に痛みがあって、さらに脹脛に筋肉痛のような板もがあってシップを貼ったらスース―している。

*夕べ「江戸文化の変容」を読んで、第1章「この不安な肉体」を読んだが、江戸時代に於ける性の問題で、柳沢沮園の「ひとりね」を題材にして、江戸時代の性風俗について話しているのですが、近代思想に於ける「性」の問題を考えると何が違うのか、と思えた。

絵画の世界でも、「写実」の世界が近代への移行かなと思える。文学においても短歌の世界では、子規や与謝野寛などが、自然描写、斎藤茂吉らの短歌が、時代の主流になう。眠い。

昼間に破断の畑仕事を命一杯したので、花壇はきれいに縦鼻されている。

市伊三郎著「思想から見た明治維新」(講談社学術文庫)

この人、ポパーの「歴史主義の貧困」を訳した人だ。

*また今日「グローバル資本主義の中の渋沢栄一」(東洋経済新報社)

という本が来て、ちょっと立派な装丁の本なのでびっくり!

「合本キャピタリズム」

ちょっと本を買いすぎだ!

だけど荻生徂徠からの流れなんですね。市井氏のテーマは、「歴史に於けるパラドクス」なんですね。この「パラドックス」を正面から取り上げた人に初めて出会った。

この「パラドック」は、Weberの「資本主義の精神」論で彼が初めて意識的に解明したものです。意図したことと全く異なる結果が起こる」とことをパラドックスとしたわけです。

日本の古学、伊藤仁斎や荻生徂徠が、朱子学への批判から古学が生まれ、その動きが、水戸学と結びつき、尊王攘夷、佐幕開国から、尊王開国に移り変わる思想的転回が、明治を作り出していくプロセスこそ、「パラドックス」と言えるものです。

『意識的な資本主義』というアメリカの草の根的運動に広がる新たな資本主義と渋沢の唱えた「合本資本主義」は、おそらくひとつの「これからの資本主義」への道を開くかもしれない。・・・すこし目が覚めてきた。

1730 所沢市長選挙 前投票を済ませた。

*ラーメンを術後初めて食べた。「セイ家ラーメン」まあまあ。

1930 明日の準備、雨具のズボンが見つからない!

*山の衣類がなくなっている。みあたらない。雨具のパンツが2本?見ていたのに、見当たらない。道具も古くなった

*日本資本主義の将来を見渡すについて、「公益資本主義」を唱える原

2045「思想から見る明治維新」2冊目を買ってしもうた。愚か!

文学とか美術に見る「近代」というのは『何か』?

中世的世界観から、近代的な、という前に「近世的な」な、という時代が設定できるのか、「近世」と「近代」とは、いったい何が違うのか?江戸時代のころを「近世」とはいうが、「近代」とは言わない。その区別する根拠はどこにあるのか?

正岡子規の短歌論、島崎藤村の小説、絵画に於ける印象派の出現、男女の性の問題、結局「近代性」とは難であるか、という問題につながる。そうやって見ると、中国の「現代」、ロシアの現代は、「近代性」を経た『現代』であるか、と聞かれたら、『No』と言わざるをえない。「近代性」を備えているかいないか、という問題になるだろう。

近代性の三つの要因の実現、①基本的人権、②自由 ③政治への参加

であろう。

言い直せば、封建的身分制度の廃止、専制的政治の否定と法治社会、選挙制度の体制と複数政党の存在などが前提となる。それらを制度的に実現して、初めて「近代」に入り込んだ、と言えるだろう。

経済的な側面でいうならば、「市場経済の実現」であり、そのための経済集団の活動の合理性であり、貨幣経済の高度化と言えるでしょう。経済行為が、契約に基づいて合理的に行われることだ。

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一年を耐えてこらえてひさびさにラーメン食べる術後一年

一年は食べてはならぬと言われてたラーメン妻と並んで食べる

胃袋はもはやないのに小腸の細胞頑張る身体の不思議

この二年癌と心臓重なってめげずに笑う自分がいとしい

八十のまじかになった歳になり病院通いが日課になるか

歳をとる笑って過ごす毎日がおかしくもあり秋の陽だまり

マンションの花壇の手入れ鍬をふる土蘇らせるおのれのごとく

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「江戸の変容」p203~徂徠と宣長の話::認識論の話

明日以降に・・・・寝ます。