日本の歴史を振り返ると、私は思うのですが、日本と言う地形の中で、言い換えれば山ばかりでが、平地も乏しく海に隔てられた大地、しかも美しい四季を持ちながら、台風や火山、地震・津波の災害の多発する自然条件の国土と類似するところは、ほとんどないと言える。

四季を除けばフィリピンとかインドネシアが環境的には類似するかもしれないが、秋と冬を持たない風土は、また特異な「思考」を生む。

東南アジアの国々に共通するのは「食い物に困らない」と言う風土にいた人たちと言えるだろう。食べ物に困らないと言うのは、自然に感謝はしても、疑う事がない。

太古の時代から、食べることに『工夫』を求められるところに、文化が生まれたとも考えられる。危険がなければ穏やかに暮らしていける。

古代文明と言うのが、砂漠とか気候風土のそれなりに厳しいところから生み出されたとすれば、まさに日本文明は、氷河期以降の太古の時代から、厳しい環境にあったと言えるだろう。

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この自然環境の特異性が・・・

世界史を眺めてみると、「高度成長」と言うのは、近代以前にもあった。

江戸時代でも江戸の発展と「高度成長」はあったし、西欧の中世にも封建的王権制度においても「高度成長」はあったと言える。

問題は、日本の『戦後高度成長』と中国の『21世紀高度成長』が西欧の近代化やアメリカの近代化とパラレルな《高度成長》と同じだろうか、または違うだろうか?と言う疑問がある。つまり「高度成長の同質性」の問題です。

言い換えると、高度成長をするときの「土台」が同じか違うかで、高度成長がもたらす結果が違ってくると言えるのではないか。

<『近代化』+『高度成長』の経験>がありえたのは欧米と日本だけ、と言うこと。

つまり、第二次世界大戦後において、「高度成長」は為し得ても、『歴史的近代化』が伴っていないのではないかと言う問題、または見方ができるのではないか。

その良い事例が、ソビエト崩壊後のロシアと「韓国」でしょう。

ソビエトの経済拡大は、毛沢東時代の成長と似ています。その後の鄧小平の改革開放は、「韓国の朴正煕の高度成長」に類似していると言えます。

ソビエト崩壊は土台が崩れてしまったので、それ以後、土台作りからやり直したけれど、プーチンが指導しても現状がピークだろう。

つまり、「土台」が『近代化』を成し遂げていない国では、外面的な「高度成長」はあり得ても、それ以上に持ち上げる《自力》がないのです。言ってみれば、ロシアも韓国も中国も今の段階からレベルアップするには《自力》が不足している。つまり土台が『非近代化』のままだと言うことです。これらの国々のノーベル賞をロシアの34人の内、10人(物理)はソビエト時代です。中国と韓国に受賞者がおらず、欧米に片寄っているのは、『科学的思考』、『論理的思考』が異なるからです。

何が言いたいかと言えば、『近代化』と言う要因は、この合理的で、科学的(客観的)分析ができて、論理学的な思考が可能な人々が、高度成長をする「土台」を形成していると言うことです。韓国が「ねつ造」を平気で行えると言うことは、ノーベル賞は今後もないと言うことです。

ロシアは西欧に隣接しているのでその科学帝(学問的風土)は西欧の上にあるので、東亜とは違うと言える。

ノーベル賞から見る《学問的風土》の相違=「近代化の未達成」とも言えるのではないか。

では何が問題かと言えば、「高度成長後」の高度経済の『維持可能性』の問題なのです。

イギリスを例に取れば「大英帝国の零落」とでもいえるような歴史を戦後経てきたし、オランダ、ベルギー、フランスなども殖民地を失って昔の面影はなくても、高度な経済システムと『近代』を維持している。

 

*『合理性の理解』

韓国が「ねつ造」を平気で行える

と私が書いたことに、合理性についてのヒントがあります。

合理性とは、目的と手段の選択が最適であるか否かということで、論理的に「スジ」が通ると言うことになるでしょう。

彼等にとっては「目的がすべてを正当化する」という発想で、手段の適否の判断が、嘘でも良いと言う前提にある。これは「悪」と「善」を区分するときに、理由づけするのに「事実」を重視しないのです。最初に判断有りきですね。中国の文革の時にそれでどれだけの人が犠牲になったか。ポピュリズムの怖さはここにある。法律も恣意的に解釈されたり、「赤信号みんなで渡れば怖くない」は、この流れです。

 

《近代化》と言うのは、近代革命を経て、「思想の自由+学問の自由+基本的人権」を分母にして、分子に『近代資本主義の精神』のある国々と言える。分子は「職業倫理」や「経済倫理」のある『経済行為』=「生活様式」と言っていい。これを先進国型式とすれば、BRICsと言われた国々は、土台がまだ完成していないし、分子が『営利欲』のままなのだと言えて、これを後発国型式と言うとする。

先進国型式にするには、①土台を形成する、②分子を営利欲から「変革」すると言う2段階を経ないと行けない。

分子をわかりやすく言えば、経済行為において「倫理的な行動をとる」と言う《実践倫理》の存在です。

東亜に在っては見事に欠如しています。

そこから理論的に導き出されるのは、「高度成長」が前近代のシステムのナカデ行われても、それを維持するのは難しく、『没落』または『衰退』する可能性を常にもつのです。それもそれ以前に落ちる可能性が強う。「近代化」を伴わない後発国の高度成長は、その最高度に達したとしてもそれを維持していく「成長可能性の維持能力」が欠けていると言えるので、その最高点の状態を維持するのも困難になると思う。

「社長の器以上に会社は大きくならない」と言う私の言葉ですが、国も同様で、創業者のカリスマが企業を巨大化しても、そのカリスマ性を継続していくのは不可能なのだ。その歴史的事例は古代ローマ帝国の五賢帝の時代にある。ですから創業企業をサラリーマン社長が維持し、かつ成長させていくには、会社のシステムが公明正大で、かつ社会ルールや、約束事を守っていかなければ、継続できないのです。その根底にあるのが『信用』と言えるでしょう。

『信用』+合理的システムの組み合わせが国にもなければならない。

巨大な世界国家の事例、もっとも大きいのがモンゴル帝国でしたが、図体がデカいだけで、分散しました。ソビエトも社会主義が合理的に見えたが、官僚支配国家になって崩壊分散しました。ロシア帝国の残影となっています。

イスラム帝国も合理的なシステムは形成維持できなかった。

中国を見て、もし唐の時代に、あの最大範図で合理的な仕組みができていたら、現在まで保てたかもしれない。しかし形成できなかった。

アメリカと言う国は国土で言うと中国にも劣らぬ広さをもちますが、建国以来200年以上どうでしょう、19世半ばに「南北戦争」があったけど、成長し続けました。

 

アメリカにメイフラワー号の移民者が上陸したのは1620年です。

中国は明朝の時代。

日本は江戸幕府が開かれて、16年に家康が亡くなり、23年に家光の政治が始まるし、家康の時に朱子学が導入されます。

それから150年後の1774年に独立戦争があって、アメリカと言う13州の国家が誕生します。日本では徳川家治将軍の時代です。清朝では乾隆帝の時代ですね。

アメリカが生まれた時代、ヨーロッパにはイギリス帝国、フランス王国、神聖ローマ帝国、ロシア帝国、トルコ帝国、ムガール帝国があったのです。

1789年にフランス革命が起こり、王国は消えます。日本では江戸時代の寛政の改革が行われています。1786年千島劣等の探索が行われました。アメリカでは第一回合衆国議会が開かれ、ワシントンが初代の大統領になった。イギリスではアダムスミスが死にました。

朝鮮では1791年に洋書を焚書にしています。清国は安南と戦争しています。

アメリカでは独立戦争から100年、1861年に南北戦争がはじまります。

日本では1853年にペリーがきます。それから15年後に1868年に明治維新となります。

イギリスでは産業革命が起こり、フランス、ドイツがつづき、トルコ帝国、ムガール帝国は植民地にされていく。

清朝は1850年~64年の間太平天国の乱があり、その後に阿片戦争となって半ば殖民地化の様相を呈していきます。

 

歴史的近代とは宗教革命に端を発して、20世紀の第二次世界大戦に至るまでの時間内に起きた、思想、政治、経済、文化の変革の総体をさして、それが起きた地域と起きない地位とに分かれていったと言えます。

そして、『歴史的近代』の誕生は、人類が経験してきた過程の中で、呪術の支配から逃れて合理的思考に変化していき、人間の生活態度が『近代人』を生み出したことにある。近代人の原型の誕生は政治がすべてを支配する世界から、マルクスが分析したように、経済が支配する世界に「変化」したことにある。マルクスは経済が下部構造で、下部構造で上部構造が変わると説いたけど、実は、そうなったのは近代になってからで、それまでは上部構造の政治が下部構造を規定していたとみる方が正しいのではないか。

つまり、中国を見れば、経済構造の変化など一度もなく、政治が下部構造を支配し続けていると見た方が正解だ。

近代資本主義は『近代的経営者』と『近代的労働者』、および『近代的市民』、『近代的法』を必要とし、いわゆる『近代人』が経営する『国家』『制度(システム)』が無ければならない。

アメリカはそういう近代人が建国した国であり、そのシステムが強固に出来上がったのが南北戦争以降で、アメリカのシステムが『鉄の檻』となって近代人製造機の様な役割を果たしている。つまり型にはめる役割をしている。当然ながら全部が全部成功するわけではなく、一定の条件を持った移民が「近代人」になる。

インド人や日本人は非キリスト教徒の中で、その素質が十分にあり、イスラムや東亜は、なりきれない傾向が強い。

 

端的に言って『近代人』とは『道徳的な生活様式を日常で実践する人』なのです。

ウェーバーの論文が描き出したのは、つまり経済行為と道徳的倫理とは、近代以前の社会では、最も遠く離れた対極に位置するものであったのが、欲得の世界に『倫理』を持ち込んだことで、『契約』の順守が当たり前になり、合理的な経済行為の計算が、簿記会計の発展に合わせて可能になった社会を生み出した。

この資本主義を『近代資本主義』と称して歴史概念につくりあげた。『近代』と言うのは、徹底的に『倫理的』社会なのです。

倫理や道徳を人々の生活に強く強要するのが「宗教」であったわけで、道徳や倫理はどの宗教も共通しているが、中国の儒教だけが神とか仏様を必要としないところが異質なんです。それと他の主教は死後の世界での魂の救済を求めて、現世を道徳的に生きると言う立てつけになっているけど、儒教は、この世で、徹底的に現世においての「成功」=聖人君子に成ることで救済を得るし、道教では現世における「成功」=長寿・富貴=「現世での救済」です。

中国人にとっては、『この世』こそすべてであって、あの世は現世の続きと考えられている。死生観の相違が中国の思想が他の宗教と異なる特異な点なのです。

 

それで現在的な課題として、前回のブログで『老いゆく韓国』でも書いたことですし、中国の未来について、私が問題としているように、現在の「擬似的近代化による高度成長」社会を『持続できるか』という問題です。

ヨーロッパ諸国はすでに高度成長を遂げていますが、経済的には持続可能な成長をするシステムになっています。ドイツの例を考えてみると、東西統一後に、東の負担を背負って衰退したけど、持ちこたえています。今後中国の影響を受けて、低下しても、再び回復する力はあると思います。イギリスも帝国の没落と言われても、先進国としての地位を維持しています。

日本もバブル崩壊後に、停滞しても回復していますし、実質GDPでは伸び続けています。

『持続可能性』の有無こそ、「近代成り」と「近代不成り」の相違だと思うのです。ウェーバーが『前近代社会」と言い、『近代社会』と区別した視点は、そこにあると思うのです。

その「近代人」を自覚的に人々がとらえたのがアメリカの独立宣言に現れた『権利章典』に書かれた『人権宣言』なのです。フランス革命の「人権宣言」はアメリカのそれをもとにして発せられたものです。

長谷部日出男氏の「二十世紀を見抜いた男ーマックス・ウェーバー物語」新潮社は学者以外の書いた素晴らしい著作だと言える。

特に「21世紀の進路を示す傑作」「M.ウェーバーアメリカを行く」「資本主義と言う『運命』」の最後の3章は読みごたえがあるし、長谷部氏のウェーバー理解の深さを示す。18年前に出されたものだが、改めてお薦めしたい。

長谷部氏が見事にウェーバーのプロテ論文を開設されていますが、ルターから始まった宗教改革で、「神は人間のためにある」という発想から、「人間は神のためにある」と言う大逆転の意識改革をさせたのがカルヴィンの偉業だと言うのです。人間の『意識改革』ですね。

そこから言えることは、『近代的諸価値』=基本的人権・自由と平等、政治への参加権利=主権在民、職業倫理、プロフェッショナルと言う日常的な英雄を目指す考え、「信用を土台とした社会システム」、学問の自由、信仰の自由、さらに21世紀の課題となるである《共存する「寛容性」》の意識変革、特にこの「寛容性」は今後の課題などを実現させられるシステムを持たないと、または作り出さないと、高度成長の「成果」を享受して維持していけないと言う時代になるだろう。

 

先日の瀬口氏の記事を批判的に読んだブログで、唯一評価したのは、今後の日本の役割の部分で、洋の東西の文明・思想を受け入れている「日本」、さらに西欧思想の流れを汲まずに独自に「近代化」を成し遂げた経緯を分析して、後発国とその方法論を共有することは大事であり、今後の世界の平和的発展の発展のために日本が地道に果たすべき役割は大きいし、未来の日本人たちに残すべき遺産は、今後ますます世界から注目されると思う。

 

日本が持つ経験を、中国や半島のように、善悪だけで日本を捉えて、反日であることが『善』であり、『正義』だなどと言う限り、《近代化》は不可能だ。

日本を求める国には最善を尽くして協力しあえばいい。日本を拒絶する国には、黙ってみていればいいだろう。

我々には韓国の経済と、中国の経済状況を静かに見つめていく以外に良い方法はないだろう。