インドで考える「文明と経済」

インドに来て1週間がたちました。日本の情報はまったく入ってきません。TVもほとんど見ていないので世界と隔絶した雰囲気です。いったい何をしに来ているのかといえば、NPO活動の一環として亡命チベット人社会とのコミットした活動をするためですが、それは中心となるNPOの理事長で、セルフマッサージ、メディカルケア・マッサージをチベットの人たちに教えること、また施術することなのですが、10年インドに通うことで、いろいろなことを考えさせられます。

 

ご参考までに

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この法人は、インド在住のチベット人、インド人に対して、現状の調査・分析を行い、職業訓練校や未就学児への資金援助に関する事業、豊かな生活に有効に利用される知識・情報を伝える事業、生活を向上するための支援事業及び国内外への普及啓発に関する .

 

Youtube  Nyingtop video

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この活動も資金面や参加してくださる人などの問題を抱えています。私も年齢を重ねていますので細々と手伝いながらと、思っていても80歳まで続けるのも大変です。

しかし、60にして人生の一区切り、生きてきたことに感謝して、その後の時間をボランティア活動に従事することを思ってやってきましたが、いまだ経済的な問題を抱えて、自分の思いを遂げられるかわかりません。でもやりとおせるところまでは進みたいと思います。

 

インドといえば、そのイメージから腰を引かれる方も多いと思いますが、亡命チベット人とダライラマ法王を受け入れた歴史を考えると、インドという国の寛容さを考えずにはいられません。

 

近年、特に中国の台頭は目覚しく、中国の日本への圧力は元寇の時代を思わせるものがあります。元寇は朝鮮がお膳立てして、元の大軍をもって日本を占領しようと企てたもので、元の兵士らは日本に定住する用意までしていた。

現代の状況はまさに当時と似たものだといえるだろう。る

中国という国とインドという国とを比べてみたときに、中国は過去に学んだ国・文化であったと言えて、現代に会っては学ぶものがその文化にはもはやないとも言える。

他方、インドについて言えば、同じような悠久の歴史を持ちながら、長期にわたるイギリス支配を受けてきた。大英帝国に組み込まれて植民地支配を受けた時代は、日本が中国に攻め入った8年とは比較にならないものである。

中国は今もなお、日本を占領しようとするかのような武力的圧力を仕掛け、日本に危機感をもたらしている。朝鮮はその手先であるのは元寇と変わらない。私はもう一度日本は、その「文明」を守るためにも団結しなければならないと考える。

インドは多面、日本にとって「仏教」の発祥地であり、「哲学」の地である。また東京裁判においてパール判事が、西欧の偏見に満ちた報復裁判に唯一異を唱えた人だった。だからインドについて無関心でいることのほうが日本人にとっては問題なのだ。

 

戦後の日本を考えるとき、日本という「文明」は理解されることがなく、また日本人も「遅れた国」という意識で西欧を崇拝した。しかし、歴史をもっとよく振り返ったときには、武力とキリスト教で世界を征服しようとしたことが、果たして「善」であったのかといえば、それは今の時点から見直した時には、歴史としては受け入れても、今後行われるて「良い」行動にはならないといえる。

 

日本は戦争をのぞまなかったにもかかわらず、戦争に追いやったアメリカの当時の態度と、戦後、東京裁判で

日本を「罪人」に仕上げた行動は、「イエス」を裁いた姿に似ている。日本は「罪人」とされて、その「罪」を背負わされた。日本人が抱かされた「罪意識」は西欧的発想であり、アメリカの独善と人種差別によるものだ。彼らがどれほどの「植民地政策」や奴隷と人種差別で、おくの「罪」を犯してきたのか、それを自省することがなく、日本に押し付けて日本を十字架にかけた。

日本は処刑され、彼らの犯した罪を背負わされて、戦後耐えざるを得なかった。アメリカは今、十字架にかけられたイエスを見るローマ軍の隊長のようだ。そして、イエスに対して罵詈増減を吐き、石を投げつけるパリサイ人の集団に、東亜の国々はなった。自らを正当化するためにイエスの処刑を望んだ群集と化した。

しかし、いずれイエスがよみがえったように、日本も蘇るだろう。復活こそキリスト教の本質だ。

イエスという人物はユダヤの経典イザヤ書に予言された救世主の行いを実践した人物なのだ。日本という国も西欧の横暴に苦しめられた国々にとっては、救いの国なのだが、日本もまたそれらの国々も気づいていないのだ。

そこから言えることは、日本という国が、その文明が、これからの歴史に果たす役割は大きいということだ。その役割とは何かといえば、軍事大国になることでも、経済大国であることでもない。多くの国々から「尊厳」される国であるように進むことなのだ。

 

インドという国は、その意味において日本との関係はニュートラルであろう。

日本が戦後背負わされた「作られた罪」に苦しみながら歴史を歩むのと同じように、インドは長年のイギリスの直接支配の歴史を背負いながら歴史を歩んでいるが、彼らは、私が言うところの「悪」を行っていないのだ。

 

日本と言う国の歴史を振り返れば、その特異性が認められるだろう。それをこれからも論じたい。途切れ途切れの話しになるのは集中力のなさと不勉強による、自分のふがいなさだが、日本と言う文化をインドと言う地で、思っても世界から避難されるいわれはない文明だと思う。

 

これからツクラカン寺に行来ます。ダライラマのティーチングの2日目になります。今朝はこのまま投稿させてもらいます。

                                      (インド、ダラムサラのゲストハウスにて)