この5月の連休後半に山で8人が死亡した。
全員が60代と70代の人だった。
私はこれらの人たちを心から弔う気持ちにはなれない。
白馬のグループも防寒対策が不十分であったというし、爺ヶ岳の62歳は単独行だ。涸沢岳の70代の男性、なんでといいたくなう事故だ。
年齢が重なれば、体力は格段に劣るし、まして世間に世話をかけるなどというのは、思慮分別のあることではない。
若者が事故に会うことは、その昔からあったことだ。若者はチャレンジ精神で、危ないことだってやらかすことだってある。私は若い人たちには寛容でありたい。
だけど自分と同年代のジジイやババアは許せない。
歳を重ねることの意味、それは思慮分別、人様に迷惑をかけない生き方をすることだろうに。
天候の変化を察して、危ない行動を避けて、人様に迷惑をかけない生き方こそ、年寄が示さなければならない姿でしょうに。
事故の詳細はまだわからないことが多いけれど、白馬の事故では小屋の責任も問われると思う。白馬大池の小屋に泊まったというから、あの天候のなか、止めなかった責任は問われる。
正直、自分が歳を重ねても山に行きたいと思う気持ちがあり、無茶をしてはいけないという思いと葛藤しながら山に登ろうとしている。それは<思い>と<体力>のはざまでの葛藤だ。

去年、八ヶ岳でモンベルの社員の3人組に厳冬期の行者小屋で出会った。今年5月の鳳凰で27歳のグループに出会った。この5月の後半にも3人組の若者に出会った。夏には大学の山岳部の連中に出会った。彼らはとてもすがすがしい気分を与えてくれた。最近男子がいい。
若者が山に帰ってきている。それも山を勉強をしてる連中だ。
私は若者が山に帰ってくることを歓迎する。そして新しいスタイルで挑戦してほしいと思う。

それに比べて、高齢者はもっと自分たちの行動に責任を持つべきだ。
80歳になっても山に行くご時世である。それを否定することはしない。自分だって行けるものなら行きたい。ただその場合の心構えが、どういうものか問われている。高齢者になればなるほど責任は高いのだ。

ともかく、自分もそうだけど、若い人たちには許されても、われわれ高齢者には許されない行動があることをわきまえないといけないと思う。
すくなくとも自分はそう思って、行動をしたいし、安全第一を考えたいと思う。

5月4日に槍平に向かったが、足が攣って、途中でやめたものの、悔しいから、それでも少し歩いた。下山してきた若者に出会った。彼は槍平まで行ったけれど、天候が悪いので引き返してきたという。彼の言葉と行動に、私は素直に自分の行動を中止した。こういう若者の方がはるかに分別があるというものだ

若者よ山に来たれ。君たちの姿は美しい。
私は山を通してではあるけれど、新しい時代を若者たちが作り出してくれると思えるようになってきた。年寄がそれを邪魔してはいけないのだ 。