何が始まるかと思いきや花咲かじいさんの話で、

(笑)
隣のおじいさんが、ポチを借りて、ここ掘れワンワンと言わないから無理やりキャンキャン言わせて、
掘ったら汚いもの、腐ったものが出てきて、腹が立って、ポチを叩き殺して
「あんな役にも立たない犬は殺してしまった」って

  
おじいさんが泣きながらポチを埋めて、お墓に木を植えたらぐんぐん育って、
大きくなったからそれで臼をこしらえてお餅をついてお供えしようとしたら、
お餅をつく度金銀小判がザックザク

  
それも隣のおじいさんが借りて、灰にしてしまう。
そうして三度目。
おじいさんがその灰を撒いたら花が咲いて、
隣のおじいさんが真似したらどうなったと、

  
となりのおじさんの悲惨な結末で昔話は結んでいる。

  
同じ事をしても結果が異なるのは、行為に対する結果ではなく、
思いが形になる事を教えてくれている話であると思っている。
  
思いって、願いではないのだと、この話を思い出していた。
  
おじいさんがポチを愛した。その気持ちにポチは答えた。
愛する気持ちに世界は答えるという事なのだろう。
そして、自分の愛の度合いは、多分、返ってくる世界に、見せてもらえる。


今、そんなことを、思い出していた。
隣のおじいさんがやることなすこと上手くいかない心の貧しさに、共感していた(笑)
  

  
上手くいかない事にイライラして、物事にぶつければ上手くいかないことは重々承知なのに、
自分はこらえ性が無い。

  
どれ程の思いも裂いた時間も、労力も、そこに愛を投入出来なければ料理と同じ。美味しいものがつくれない。
結果は自分が蒔き散らしたものが返ってくる。
  
そんな事を思った時、
私は何を愛していたのかと。
  

   
故郷を守りたかった。
勝手にチラシ作って やみくもな500世帯ポスティング、こんなもので来てくれる人等いないと知っているのに、
回覧板も回させてくれなくて、他に方法がないから、
  
その気持ちに世界は答えてくれたから、一時からのシェア会に、ポスティングで2人、SNSで一人、母も手伝ってくれた。
たった3日間のドタバタ劇で、これだけ来てくれれば充分だ。
でも、

 
事業者説明会では、事業者に対して、落ち着いた態度が取れなかった。
責め立てる様なものいいを、止められなかった。
  

  
4時からの会は、近所の評議員さんが自主防災連絡協議会から人を集めてきてくれていて、
参加者18名、事業者4名の、総勢22名。
 
  
近所の人達、これから良くも悪くもその評価が自分の活動に大きく影響する人達の前で実質的に初めて、言葉を発すること自体、とても大変なことだった。
まともな受け答えが出来るかどうかも怪しかったのに、その不安を押しのけて
私はその渦に飛び込んだ事を、もっと評価してもいい。
  
でも、私は始終自分の出来なさを責め続けている。
  
だからこれを書き始めた。
  
私は改めて知った。
  
目の前の相手も、故郷と同じように愛する必要があるのだと。

   
おじいさんは、誰も責めずに一連の物事丸ごと全部、坦々と愛を生きる。
その結果のみのりを手にする。

おじいさんは愛の世界に生きている。何があっても、そこから出ない。

ポチを殺されて悲しんで、それでも、その喜怒哀楽さえ、幸せな世界なのだ。
  
私は、

隣のおじいさんの様に八つ当たりするから又同じ事が繰り返されるんじゃないの?

もう、こんなこと、したくない。
泣きながらやって、結果にも泣いて、それでも、天秤にかけたらやらなくちゃならない。

先陣切った人達、リーダー達はそんなに嫌々ながら始めたんだろうか?
やる人が居なけりゃ、ほおっておけない人間がやるしかない。
誰も代わってはくれない。
自分の下手さ加減を、一々言い訳も出来ない。

皆 他人事で、知らんぷりされていることにも憤りを感じる。
辺野古を守ろうと踏ん張っている人達も、そうなのかな。

娘に、逃げない私を育ててもらって、
出来ない人間を装ってやり過ごす生き方は、今更、出来ないね。
母が、つき合ってくれた人間に失礼だろと、怒る。
わかっている。
だから、辞めない。
  
昔、愛されていたから、関わってくれた人がいたから逃げだせなかった様に、
今、応援してくれる、付き合ってくれる人がいるということが、
何か、強く、前に進むことを促されていることなんだ。