4月21日地域座談会を主催する前の自分の状況。
何かで参っていた自分を面倒見る為に、内面を整理する為に書いた。

このUP出来ないでいたブログ用記事が、たまたま目にとまって、
読んでみて、
あの頃の自分が充分今の自分を助けていることを知った。

   
又、丁寧に自分を面倒みていく必要があるから、その姿勢を思い出したい

だから6月12日にUPした。

   
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好きになってもらえる条件が、有り続けた。

私は、他者と自分を比較しては
その苦しみから逃れようとしてきた。


私は愛されていた。
けれども、
それは条件ずけの愛だと思ってきた。

私が相手の意に添わない時、私は強くたたかれた。
あるいは、私が最も苦しむ様な現実が待っていた。

相手は、それ以外の選択肢は無いのだと、
私に想わせることが出来た。

だから、私は、そういうコミュニケーションを覚えた。
私の記憶が、そんな在り方を、嫌がるから、
私は、自分の表現を怖がる。

可愛がるということを、愛するということを、
相手が喜ぶ形で表現することを、知らない。

人にちょっかいを出し、困る相手に戸惑い、
何を捧げれば、喜んでもらえるのか、
わからない。



私が皆に喜ばれて、皆のリードでステージの真ん中で唄った時の幸福感を、
翼を持っているという感覚を、
私は、外の世界で知った。

私の他愛のないお喋りを、楽しんでくれる人がいる。
私の隠さない気持ちを、どこまで投げつけても、
それさえ、楽しんでくれる人がいる。


私は、外の世界で、自分の広がりを知った。

もっと知りたい。

そうしたとき、

それが、私の現実であることを、信じるこが出来なかった。

すべてが、何かのきっかけで消え去ってしまう。
そういうことが、私の今までの条件づけ。


傷つきたくなかった。
幸せになると、恐くなり、そこから逃げて、又求めて、繰り返し、
自分で、その可能性を、壊すことを、いつのまにかしてしまうことがある。
いつも、最後の詰めを、出来ない自分がいる。
そこに何があるんだろう。


本当は、
本当は、父は、私が父の意に添わなくても愛してくれていた。

母は、私が母の意に添わなくても、愛してくれていた。

何度か、外の世界でもらった愛に、気が付いていた。
気が付いていながら、受け取れなかった。

ちゃんと、気が付かせて欲しかった。
自分が感じている、この感覚は、信じられるのだと、

信じられない。
相手に愛されるに値する。いくつもの条件を、私は満たしていない事に、やがて相手は気が付くだろう。
そしたら、相手は心変わりするだろう。
そうして、好きだと何度も示してくれた相手を、私は無視して。
私は何をしてきたんだろう。

感じ取れるのは、
愛されて来たから。
例えその表現が歪んでいたとしても、
大事な存在として、健やかな成長を願われてきた。

私はどこかで知っているんだよ。

本当は自分こそが、相手を愛せないことを、恐がっているんじゃないの?
上っ面だけで好きだと言って、
向き合える自分を、未来にゆだねて、
今、私は、途方に暮れる。

ひとり、一人、

その気持ちを受け止められる勇気があれば、
きっと、今直面している地域問題で、
否応なしに推し進めている近所の人達との対話も、
もっと、
大らかに楽しめる。


コミュニケーション障害なのだと、話したら、
友が

自分自身と、繋がれないのだと、
あっさり言ってくれた。
それは、友の自分事としての話だったんだろうけれども、

私もそうなんだろう。



帰りたい故郷は、過去にはない。

私を受け止め続けてくれた人達に喜んでもらえたら、

そんな生き方がしたかった。

私が前向きでいれば、喜んでくれる人達に、
いつか、
私が頑張ることで、手に入れる果実を、
手渡したいと。

それを目指す事が出来れば、私は、安心する。



友と、仲違いする度、
とてつもなく苦しい自分を、見て来た。


信じた友の、自分への疑いを感じた時、
私はすぐに、強く自分を守る為の自動的な反応をしてきた。
そこに、
同じ構図が表れてくる。

友の気持ちを信じられなくなり、上手く出来ない自分を信じられなくなり、
私は自分軸を、再度造りなおす。

何度も、仲違いをして、何度も又より戻し、

その度
こんどこそ、相手を信じ続けようと、
誓った。

いくらでも問題はあるよ。それは、誰もがそうで、
恥ずかしい程の癖を、あからさまにぶつけてしまっても、許されたい。

だから、私はコミュニティをつくるのだ。

対外的に綺麗に均された人でなければ、付き合えないなんてことはないはずだ。

どんな人でも、共に生きていける為に、

それは、自分を、社会の中に置き続ける事が出来るように、私が自分の為に欲するもの。

傷を、過去を癒す為の必要を、
私は求め続けてきたことを、知っている。
それを、悪いとは思わない。
それが自然界の仕組みでもあるから。


どれだけワークを受けても、
その時その時現れるものをかたずける以上のことは出来ない。

螺旋が何度目かめぐって、
そうして片づけていけた分だけ、
空が綺麗になる。

昨日、画像が見えた。娘が神の姿で、雲となって下を見ていた。

少しでも軽くなった世界を、娘に手渡したい。

娘にしてもらったこと、多分私が認識出来る以上のことをしてもらったことを思いながら、
叩いてしまったことを、様々な癖を押し付けてしまったことを後悔しながら、

私は、私に繋がるものを片付ける。

散らかしている様に見えた。広げている様に見えた。
でも、私は体のどこかで知っている。
自分のしている事の本当の意味を。
だから、そこへ向かっていく。

その時の信頼が消える時、
見失う時、
それでも、
信頼していた時の自分が敷いたレールに従い、やるしかない状況が、いつもある。
大きな自分が出来ることが、小さな自分には出来ない。
何故、大きな自分で有り続けることが出来ないのだろう。


名前も知らない何かに支援されて、遠くの、近くの大事な人達に支援されて、嬉しかった。

目いっぱいやらせてもらった。それなりに幸せを感じるところに着地しようとしていた。

15日は、何かが明けたのだと思った。
その前までとは確実に違う空気感、詰まっていたものが流れだした。


私は立ち止まり、途方に暮れていたけれど、
一体何に囚われているのだろうと、思う。
きっと、疲れているのだ。

これから21日まで、私は地域を走り回り、一人一人と話していく。

稲の苗作り。可愛い芽が出た!