テレビドラマだけでなく、映画のスクリーンにおいても、ショーケンは日本映画史に深く刻まれる傑作を次々と残していきました。

特に印象深いのは、1972年の神代辰巳監督作品『約束』です。萩原さんが演じたのは、仮出所中の殺人犯の女性(岸恵子さん)と列車の中で偶然出会い、短い逢瀬の中で激しい恋に落ちる若い泥棒の男でした。北陸の寒々とした風景の中、型通りのセリフ回しをあえて崩し、呼吸の揺らぎや、突発的に動く指先、言葉にならない沈黙によって、孤独な男女の魂の交歓を見事に表現しました。この作品で彼はキネマ旬報の主演男優賞を獲得し、映画界からも「本物の役者が現れた」と絶賛されることになります。

 

さらに1980年には、世界の巨匠・黒澤明監督の映画『影武者』に大抜擢されます。彼が演じたのは、武田信玄の息子でありながら、偉大な父の影に怯え、焦燥感から破滅へと突き進んでいく悲劇の武将・武田勝頼でした。 完璧主義者として知られ、俳優の立ち位置からセリフのイントネーションまで厳密にコントロールしようとする黒澤監督に対し、ショーケンは持ち前の「枠にはまらない生身の演技」で真っ向から挑みました。劇中、勝頼が放つ、父へのコンプレックスに歪んだ狂気的な眼差しと、じっとりと滲む焦りの汗。それは、黒澤映画のクラシカルな様式美の中に、現代的な若者のリアルな苦悩を強烈に突き刺すような、凄まじい緊迫感に満ちた名演でした。

 

彼の演技の何がそれほど革新的だったのかといえば、それは「予定調和の破壊」にあります。台本を読み込み、綺麗に構築された演技をカメラの前で披露するのではなく、その場で相手の役者から受ける刺激に対して、自身の肉体が本能的にどう反応するか、というドキュメンタリー的なリアリズムを重視していました。

こうした、セリフの合間にある視線の泳ぎ、突然の沈黙、あるいは感情が高ぶったときに思わず出てしまう手の動きといったアプローチは、その後に登場する松田優作さんをはじめ、1980年代以降の日本の映画人や若手俳優たちにとって、文字通り「生きた教科書」となり、決定的な影響を与えることになったのです。

 

リアルの先に輝く「生の人間」の臨場感

 

ザ・テンプターズのステージでマイクスタンドを揺らしながら流した本物の汗。 『傷だらけの天使』の代々木のプレハブで、リビーのコンビーフを素手で貪り食ったあの指先。 そして『前略おふくろ様』の浅草の料亭で、戸惑いながら「へえ……」と頭をかきむしったあの表情。

私たちが今もなおショーケンを愛してやまない、その魅力の正体とは、言葉の綾としての「カリスマ性」や、誰かが作ったイメージの美しさなどではありません。それは、徹底的に具体化された、彼の一つひとつの肉体表現と、確かな足跡というファクト(事実)の積み重ねの先にしか存在し得ない、剥き出しの「生の人間」の熱量そのものなのです。

 

彼はいつでも、私たちの代わりに傷つき、私たちの代わりに怒り、私たちの代わりに不器用な涙を流してくれました。スマートで効率的な生き方ばかりが求められる今の時代だからこそ、あの計算をすべて置き去りにして、カメラの前で命を削るようにして生きたショーケンの姿が、私たちの胸を激しく焦がし続けてやみません。

 

「格好良く生きるって、こういうことなんだよ」

 

画面の向こうから、あのハスキーで、少し照れくさそうな声が、今にも聞こえてきそうではありませんか? 私たちの心の中で、萩原健一という不世出の表現者は、これからもあの気怠い(けだるい)ステップを踏みながら、永遠に走り続けていくのです。