ファンワズのカテコ後のシーンが千穐楽だけ変更されていたという情報を知ったときは、「ふーん、今回はこう来たか。ディスグーニーならやりそう。」って醒めた気分で受け止めたわたし。でも、実はその後ずっともやもやし続けていた。

セカチル大阪千穐楽で、その公演のみの追加シーンを観たときに感じたもやもやに近かった。登場人物の関係に深みを与える過去のひとコマが描かれていて、単なる千穐楽のボーナスを越えるとても重要なシーンに感じ、「これまでの公演しか観ていない客に失礼じゃない?」と思った記憶がある。

どちらも、舞台は生ものだしそのとき限りのライブなんだから毎回違って当然とか、千穐楽は祭りだからとかいう次元とは違う気がして…。

公演を重ねるにつれ、完成度を高めるために演出や一部の台詞が変わって行くのは全然歓迎するし、それも舞台の醍醐味だと思う。

でも、物語の見かたを大きく変えてしまうような脚本の変更を、最後の一公演だけにぶつけてくるのはどうなのか。それ以前の公演を観に来た観客を裏切ることにならないのか。

 

ここからは思いっきり私見で、観劇傾向がかなり偏っていて西田さん作品の観劇歴が浅い一役者ファンの戯言なのでお許しを。

西田さん作演の舞台の場合、わたしは「もしかして間に合わなかったんじゃないの?」と疑ってしまうのだ。今回は、千穐楽の最後の最後だけに明かされた秘密の設定を観客にどこまでどうやって伝えるか、脚本上詰め切れないまま開演を迎えたのではないか、公演を重ねる中で言葉にして伝える選択をしたのではないか、という疑念が頭をもたげてしまった。

「いやいや、最初っからこうするつもりでした」ってことなら失礼千万な邪推で申し訳ないけれど、邪推したくなったのにはそれなりの理由がある。

 

その昔、開演時間が大幅に遅れたリザルブの初日、場当たりだかゲネだか記憶が定かじゃないけど時間が足りなくて最後までできず、西田さんが袁紹役の萩野さんに台本のラスト16ページを「気持ちでお願いします」とおっしゃったという。その話を聞いたとき、わたしは内心「ふざけんな!」って怒りに震えた。

セカチルでは、玄白役が稽古中ずっと代わりの役者さんで、西田玄白と萩野源内が初めて芝居をあわせたのは初日の本番だったという。それを知ったときも、わたしは「そんなのあり?」と客として馬鹿にされた気がした。

どちらも萩野さんをはじめとする役者さんたちの演技は素晴らしかったし、マイベスト10を上げるとしたら上位に入る作品だ。だからこそ、せめて開演前に一旦は仕上げた形にしてから観客に披露してほしかった。

今回は、萩野さん演じる項梁に関する設定ではなかったのと、ディスグーニーの千穐楽へのある種の諦めもあって感情的にはならなかったが、納得できない気持ちは同じだった。

 

でも一方で、これって常識に囚われたアタマの硬いわたしのわがままなのかな…という思いもよぎる。

全ては自由で破天荒な海賊船の新しい挑戦なんだ、常識を覆すこれまでにないものを創ってるんだ、それを一緒に船に乗って見届けるんだ。そんな風に心から思えれば、文字どおりのぶっつけ本番も、今回の舞台の締めくくり方も「粋だね〜」って新鮮な感覚で素直に受け容れられるのかもしれない。

でも、たぶんわたしはこれからも事あるごとにもやもやし続けるんだろうなぁ。

 

ただ、毎回救われるのは、出演されている役者さんたちが全身全霊で楽しんでおられるのがひしひしと伝わってくることだ。自分はロスなんか起こさないと思ってたのにリンカネロスに陥ってしまった、と告白した萩野さんの言葉も印象に残っている。

追い詰められることで目覚める力は確かにあるのだろうし、お互いに化け物呼ばわりする役者さんたちが見せてくれる進化を実感できる幸せは、いつもたっぷりいただいている。

そしてもうひとつ、俳優を魅せたいがためにお芝居を創っているという西田さんの言葉には、今のところ裏切られたことがない。