目の前の女から花のような甘いいい香りがした
スグルはその記憶を最後に意識が別の世界へ落ちて行く感覚を覚える

後ろ向きに生暖かいお湯にゆっくりと沈んで行くような、それでいて息苦しさの無い不思議な感覚だ
安心感というのが相応しいのだろうか、まるで母の膝の上で寝ているかのような心地よさがある

意識の塊はそのまま闇の奥へと落ちていく

「ねぇ、そこでなにしてるのよ。早く戻らないと貴方は死ぬし、隣のゴーレムも取り返しのつかない状態にされてしまうわよ?」

声が聞こえた、どうやらその声は自分が今いるところよりもさらに深いところから聞こえてくるようだった

だが、そんなことはどーでもよかった。
今はこの心地よさにどっぷりと浸っていたかった

「僕は、、もう少し眠りたいかな…」

そう言った

「そっか、それならさ、その身体私に貸しなさい」

待ってましたと言わんばかりに声が下から返ってくる、
その綺麗な女の声の意味が分からなかった、だがそんなことはどうでもよかった
今はただ、この怠惰に甘えていたかった

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「あの眠り香からすぐに目覚めるなんて、やるじゃない」

マダム・エリスはその額に冷や汗を流しながら発言した

「おーよ、おかげで私の大事な身体が女臭くてならねぇ、ダルさが抜けねぇってゆーか、ダリィよ」

スグルの身体の使いごこちを確かめる様には手足をプラプラと動かしながらそのナニカは満足そうな表情だった。

「嘘だ!マダム・エリスの眠り香はそう簡単にお前の様な貧弱魔族に解けるようなものではない!」

062はその表情に焦りが色濃く浮かび上がっていた

「しらねぇよ、私に聞くんじゃねぇ!」

男の質問に怒鳴り返し目にかかっていた邪魔な前髪をグイッと書き上げてみせる

ここで何かに気づいたとばかりにドレスの女は言った

「貴方、誰かしらぁ?」

「ほぉ、今更気づいたか。まぁ及第点だ、んで、お前は無能だなぁ?」

少年の姿をしたソレは人差し指で062をさして鼻で笑ってみせた。

「俺がい無能だと?ふざけるな憑依者如きが」

少年を睨みつけながら042の腕からこぼれ落ちた自分の腕を拾い上げ、断面にグリグリと接合する

「ところで、貴女は誰で、何のために今その身体を使うのかしらぁ?」

「生意気に二つも質問するのか、厚かましいヤツだな」

その瞬間場の空気が凍った、とっさに指の先から糸を編み出して臨戦態勢に入るエリスとその後ろで062がどこからともなく探検を両手に出現させ、構えた

「私の名はレンズ、光の魔女レンズだ、この'箱'が使い物にならないように貴様らを始末しに出向いた、それだけのことよ」

堂々と啖呵をきるとレンズ、フンっ!と鼻を鳴らして満足気に2人を見下した顔をつくる

「光の魔女か、、素晴らしい戦力になりそうじゃないか。」

062がニコリと笑いながら言った
口元は笑っていたが、額の汗の量が男の精神状態を正確に表していた

「確かにそぉだけれども、ワタクシは一度魔女と殺し合ってみたかったのぉ。魔族にありながら魔族を見下すその傲慢な態度が気に入らないのよ、」

「待ってくださいよマダム・エリス、魔女はただでさえほんの数人しかいない最高戦力ですよ、ここで是非とも我々側に着いて頂きたいのです」

冷静を装っているのだろうか、062は言葉とは裏腹に今にも逃げ出しそうな姿勢である
それに対してマダム・エリスは目をギラリと輝かせながら舌なめずりをしている

「あぁ、うぜぇなぁ。062、だっけ?お前の仲間にはならねぇ、生理的に無理だ!」

なぜか062が目の前の少年にフラれたような空気になる
男はキョトンとした顔で止まってしまった

その刹那、レンズの後ろで壁が爆ぜた


「あらぁ、避けられちゃったぁ」

ドレスの裾を床に広がった大量の血液に浸しながらマダム・エリスが突っ込んできたのだ
壁に突き刺した拳を引き抜くと頬を赤らめたどこか妖艶な表情だった

「もう、我慢できないわぁ〜〜」

「身の程もわきまえない戦闘狂が」

女の狂気に嘲笑で返す
そこに間髪入れずに大ぶりな一撃がレンズの頭上から振り下ろされる
それを間一髪で避けるが拳の当たった床が大きくひび割れ盛大に陥没する

「アッブな、一撃食らったらおしまいかよ」

「あらぁ?低級魔族に殺されかける気分はどうかしらぁ?」

「チッ!」

舌打ちと同時にバックステップで後ろに下がるが床に広がる血液に足を取られそうになる
その瞬間左から短剣が頭に飛んでくるが、それをスレスレのところで身体を捻って回避

「おいおい、もう1人いたこと忘れてた」

「よくも俺をバカにしてくれたな!」

怒鳴ると同時にもう一本投げてくる
それも避ける

「根に持つ男は嫌われるよ!」

若干の冷や汗を流しながらも嘲るように応える

「2人でいちゃつかないでもらえるかしらぁ?」

目の前で盛大に糸の網が広がる

”メダマグモ”
その瞬間レンズの頭を過ぎったのは気持ちの悪い手足の長い蜘蛛の映像、否スグルの記憶だった

「なるほど、箱の記憶にはこいつに似たやつがいるってことか」

迫る粘性の網をスレスレでかわしながら足元が血液で滑るのを利用しながら女の股下を抜ける

「へぇ、やるじゃない、けどねぇ逃げるだけじゃぁいつか死んじゃうわよぉ?」

嬉しそうに頬を赤らめながらエリスは言った

「はぁ、確かにな、」

「あら、入る器をまちがえたよおねぇ。そのまま殺されてくれると嬉しいわぁ」

「この'箱'に入ったのは私の意思じゃないんでな」

「そんなこと今更どーでもいいじゃない。ここで散りゆく命に私が意味を与えて差し上げるわぁ」

「おいおい、まだ私は死を受け入れちゃいないぜ?」

「フフっおかしなことを言うのねぇ、光の魔女の話は知っていますともぉ、この部屋に鏡は一つとしてないのですよぉ?」

繰り返された会話はマダム・エリスの嘲笑で終わった

自信満々にレンズを見下ろすその目にはやはり妖艶な光が灯っていた

「だから低級魔族なんだ、お前らアラクネはよ」

その一言に女はムッとする
部屋の端で会話を聞いていた男はハッと気づく

「マダム!!逃げろ!今すぐここの床から!」

マダム・エリスは床を見た否、床に広がる血溜まりに映る自分の姿を見た

”鏡”

咄嗟に指先から糸を天井に向けて出し、一気に身体を引き上げるがなぜか身体が軽い
プラプラと宙にぶら下がるその身体には太ももの付け根から下が無かったからだ
痛みは無い、血も出ていない、ただ切り離された自分の足はどこにも見当たらなかった

「遅かったな蜘蛛女、やっぱりテメェは低級魔族だ、吸血鬼相手ならまだしも、相手が悪かったな」

天井にぶら下がる足のない女を哀れな目で見上げる

迫る絶望に涙を浮かべる
美しい顔はくしゃくしゃになり、もはや妖艶な姿はそこになかった

咄嗟に口を開いて毒針を吐き出すが少年の身体は軽く体を開いてそれをかわす

「062!!貴方!ワタクシを助けなさい!」

泣き叫ぶその姿は哀れでしかなかった
そしてその視線の先にあったのは

コロコロとゴミの様に転がる数本の指と足首が一つ

「気づくのは早かったみたいだけど、逃げれなかったみたいだな」

なんともつまらなさそうにレンズはそう言った

「ワタクシの…ワタクシの足をどこにやったの!!」

怒りと悲しみと、絶望の入り混じった叫びだった
涙と鼻水で顔を汚しながら叫ぶ
その姿を見ながらレンズは内心で滑稽だと嘲笑う

「そーだなぁ、難しい質問だ、お前の足とあの男は、鏡の中へ飲み込まれ、光になり消滅したってところだな」

エリスには言っていることがよく分からなかった、ただ今床に触れると消滅する
その事実が突きつけられただけだった

「なぁエリス、コレな〜んだ」

ハッと声のした方を見るが、既に少年の手から何かが投げられた後だった
プツンっと何かが切れる

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エリスの姿は一瞬で溶けて消えた
レンズは天井に突き刺さっているナイフを見ながら少し悲しそうな顔をした