戸惑いの中央アジア
カザフスタンのアルマトイで横断歩道を渡っているとき、前方から来た女性がすれ違いざまに中指を突きたて何か言ってきた。
同国の博物館ではカメラやスマホを出してすらいないのに写真をとるなと執拗に注意されたり、入場から数十分経ったあとにメモはだめだ没収だと言われ、泣きながら大事なノートを破らされたこともあった。
これらは外国人全般に対するヘイトかもしれないし日本人とわかってやったのかもしれない。
真相はわからない。
しかしふと、われわれを中国人と思い、何らかの先入観からこのようなことが起きたのかということも考えた。
中国人に間違えられたうえで差別された経験は別の国でもあったからだ。
最近もこのようなことがあった。
博物館で監視員の女性が携帯電話の画面を見せてきた。
中国語に翻訳されていたのでわれわれは日本人だというと、
「ああ日本人なのね! グッド。中国人は嫌いだ」
とのこと。
日中を比べてこのように言われたのは今回だけではない。
リップサービスなのかもしれないがわたしは笑えず複雑な気持ちになる。
国家の政治的態度はさておき、いち旅行者として中国も中国人も大好きだからだ。
旅の中で出会い話をした中国人たちは、わたしとそう変わらない価値観で生きていた。
彼女たちは旅行先や移住先で、絶えずこんな扱いを受け入れなくてはならないのか。
このような悪意だけではなく、興味本位のまじる好意にも居心地の悪さを感じた。
たいして若くも美しくもないメガネとハゲのわれわれに
「一緒に写真を撮ってくれない?」
と声をかけてくる若者がウズベキスタンではとても多い。
日本人目当てというわけではない。
「ニーハオ」「アニョハセヨ」と声がかかることも多く、聞き取れる単語からも日中韓のどれかだとふんで声をかけてきているのがわかる。
タジキスタンでも同様のことがあった。
首都ドゥシャンベの国立博物館では、若い男性のグループがわたしのほうをチラチラ見て「ニーハオ、ニーハオ」と遠巻きに声をかけてきた。
距離をとった「ニーハオ」に返事をする筋合いはないのでもちろん無視。
展示を見るのにこちらは忙しいのだ。
しかしその後も「ニーハオニーハオニーハオニーハオ」としつこく連発され、わたしの怒りのボルテージは上がっていった。
集中しているときに邪魔されるのは我慢ならないし、国籍を決めつけられるのも不愉快だ。
男数人が離れたところから声を発してくる情けなさにも苛立った。
しかしついにそのうちの一人が展示を見ているわたしの前に立ちはだかり、案の定こう言った。
「ハロー、一緒に写真とらせてよ」
やっと直接目を見て話しかけられたので答えないわけにもいかない。
風邪でほとんど出ない声をふりしぼってかすれ声で答えた。
「嫌だ。わたしは写真を撮られるのがきらいだ」
旅行中ほとんど自撮りもしないしわたしが、なぜ他人の写真の中におさまらなくてはいけないのか。
このご時世、その男がSNSに「博物館で出会った中国人」などとキャプションつきでわたしの写真を載せる可能性も考えられる。
これまで観光地や博物館で何度も同じように邪魔されてきたので、その怒りも蓄積されていた。
その日ドゥシャンベの宿に戻るとちょうどスタッフの若い男性がいたので、
「よく写真撮ってって言われるんだけど……」
と尋ねてみると、
「ああ、そうだろうね! この国の人たちは君の国に行ってみたいと思っているし、興味があるんだ」
という。
写真を求めてくる若い人々に悪気はないことがわかり複雑な気持ちになったが、「ニーハオ、コニチワ、アニョハセヨ」とかわるがわる声をかけられると、日中韓3択国籍当てゲームに付き合わされているように感じる。
返事はしないし写真も断り続けるだろう。
挨拶と写真というちょっとした国際交流をして笑顔で別れればいいのかもしれないが、わたしはどうしてもそういうやり方が嫌いだ。
そして断り続けるのにもエネルギーはいるので苦い気持ちが残る。
苦い、この思いはどこへもってゆけばいいのか。
中央アジアにはだんだんと冬が訪れ、苦さは寒さに溶け込んだ。
宿泊していた安宿はすべて部屋もスタッフも素晴らしかったが、快適な宿から出て冷たい風のなか歩く通りは、居どころのなさを感じさせるものだった。
(タジキスタン総合博物館。
館内は相当広く、無駄に(というとなんか悪い気もするが)でっかい等身大人形での歴史の再現などがあり、変に(というと申し訳ないけど)凝っている部分もある)
(鼻に棒をつっこんでいるように見えるが何をしているのであろうか)
(すばらしい癒し系遺物)