ハゲとめがねのランデヴー!!

ハゲとめがねのランデヴー!!

『深夜特急』にあこがれる妻(めがね)と、「肉食べたい」が口ぐせの夫(ハゲ)。
バックパックをかついで歩く、節約世界旅行の日常の記録。

続・続・偏愛アボリジナルアート

 

 

 

 

この一連の記事に対してわたしはなみなみならぬ情熱を持って取り組んでいるのだが、はたして読む人にとっては興味のある話題なのであろうか。

たいてい閲覧数とこちらの思い入れは反比例している。

 

しかしそんなこと知ったことか。

わたしにとっては6年越しの推し活の総括であるので、アボリジナルアートの話をもうちょっと続ける。

 

アボリジナルアートは「告発」である

 

今回メルボルンで『TENSE PAST』という本を見つけた。

 

これはオーストラリア南東部、タスマニアのアーティストJulie Goughの同名の展示をまとめたものだが、わたしはワーホリ中その展覧会に行き強く強く印象に残っていた。

 

暗い展示室の中にインスタレーションがあり、その中でも吊るされた椅子の背もたれに光を当て、先住民と入植者の姿をうつし出した作品が忘れられない。

 

 

 

タスマニアではかつて入植者とアボリジナルの間で戦いが続き、結果この島のアボリジナルは「絶滅」した。

ジェノサイドと考える人もいるし、わたしもそうなのではないかと思う。

 

この展示を見た人は「タスマニアで何が起きたのか」と考えさせられ、そして今の美しいヨーロピアンな街並みは、その虐殺の上にあるのだということを無視できなくなる。

この展示は「告発」であるとわたしは受け取った。

 

そしてアボリジナルアートは「証拠」でもある。

 

キャンバスの上で視覚化された情報は、彼らがその土地と結びついていることを示している。

同じ地域の画家の絵が集まれば、彼らの「ドリーミング」や地理的な所有範囲がある程度立証されるのではないか。

 

アボリジナルの先祖代々の土地を取り戻す試みは続いているが、土地権の回復は容易ではない。

アートがただちに裁判での証拠にはならなくとも、アボリジナルアートには彼らと土地とのつながりを訴える力があるとわたしは思う。

 

 

(Tony Albert作、NGV(ビクトリア国立美術館)の展示。

「歴史は繰り返す」。

過去ではなく現在進行形の問題である)

 

アボリジナルアートは、やっぱり「アート」だ

 

と、いうわけでアボリジナルアートは「情報」であり「地図」であり「告発」の手段だとわたしは考えているが、それ以上に、そして単純に彼らのアートは美しい。

 

わたしがアボリジナルアートから受ける印象は「癒し」と「パワー」である。

そのどちらも一枚の絵から同時に受ける。

それがポップな現代風の作品であっても、Papunyaの初期のものであっても同じだ。

 

その「癒し」と「パワー」を一番強く感じたのは、Emily Kam Kngwarrayという画家の作品群を首都キャンベラの国立美術館で見たときかもしれない。

 

エミリーの大作は大地をそのままキャンバスに写しとったかのようだった。

ちなみに彼女が絵を描き始めたのは70歳を過ぎてからだったが、残した作品の数は膨大である。

 

 

アボリジナルアートがオーストラリアの文化の一部として存在感を高めてきた一方、産業、ビジネス、観光資源、つまり「金になる」存在になったことで問題も多々出てきている。

 

現在では画家自身が各地のアートセンターの運営に携わる機会が増えているようなので、状況は改善されていると思うが、以前は著作権が軽んじられたり画家への搾取もあったようだ。

 

そしてアボリジナルアートというのは、概して安価で売買されていると思う。

 

もちろん彼らのアートが全てすばらしいわけではなく、完成度にはばらつきがある。

しかしこれまでオークションに出たアボリジナルアートの金額や、アートセンターやギャラリーで売買されている絵の金額をのぞくと、完成度と比べて「だいぶ安めだな」と感じる。

 

ここまで言い切っていいのかどうか、でも思ってるので言っちゃうと、アートの世界にもまだまだ西洋至上主義が残っているのではないか、アボリジナルアートを安く見積もりすぎではないかと思う。

 

それはわたしの偏愛によるひいき目なのかもしれないが、これまで世界中で見たどの時代のどの地域の作品よりも、わたしはアボリジナルアートを美しいと思う。

 

そこに込められた歴史、物語、思想、やるせなさ、全てひっくるめて美しいと思うのである。

 

 

(アボリジナルアートを学校教育の場でどのように紹介するか、という本。

インスタレーション(展示空間自体をアートにする手法)や現代アートも多く紹介されている。

 

子どもたちは学校でどんなふうにアボリジナルアートを知るのだろう。

教師はアートを通してどのように作品の背景を伝えるのだろう。

帰国してから読むのが楽しみ)

 

(Lola Greenoによる貝のネックレスが、同書で紹介されている。

 

ワーホリ中、メルボルン郊外の美術館でこの人の展示を見た。

貝殻、鳥の羽、ハリモグラのトゲなどを使ったアクセサリーが、それはそれは美しかった)

 

(西オーストラリアの画家の作品集。

キンバリーという地域のアートはベタ塗りであることが多く、この画家も平面的に塗りつぶす手法が多く見られるが、ペンを使っていることと、ポップな色遣いが珍しい)

 

(作品には日本製のペン「コピック」も使っているとのこと。

まだまだ知らないアボリジナルアートがあると思うと、またオーストラリア周遊したくなり非常に困る。

 

ワーホリの年齢制限撤廃を強く望む。

学びに年齢は関係ない、でしょ)

 

*オーストラリア編はこれで終わり*

 

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続・偏愛アボリジナルアート

 

 

 

と、いうわけでまだまだ続くアボリジナルアートの話である。

 

アボリジナルアートは「情報」であるというのがわたしの見解であるが、それだけではない。

 

アボリジナルアートは「地図」である

 

アボリジナルの人々は深く土地と結びついており、先祖から受け継いだ土地を「メンテナンス」するために実によく歩く。

もともと狩猟採集民族であり、自らの土地のエコシステムについて把握しているのだ。

 

(「自分の土地」といっても、わたしたちのせせこましい区画的な土地所有の概念とは違う。

なんせ白人に奪われるまで、彼らは広大な大陸を所有していたのだ。)

 

そのためアボリジナルアートには、旅や移動の要素が頻繁に出てくる。

 

また、彼らの世界観を表すキーワード「ドリーミング」もアボリジナルアートには深く関わっている。

 

「ドリーミング」とはアボリジナルの神話や世界観というふうに説明されるのかもしれないが、いろいろ読んでもいまだにピンとくる説明に出会ったためしがない。

 

今のところわたしは「先祖代々受け継いできた、土地と結びついた物語」といったイメージで受け止めている。

土地との関連、がミソだと思う。

 

アボリジナルアートで「ドリーミング」を表現すると、誰がどこそこの丘に行って何をして、次に川まで行って何をした、というような移動の形跡が一枚の絵の中に描かれる。

 

つまりアボリジニアートは彼らの土地や物語の「地図」である。

そしてその「地図」はとてつもなく広い範囲なのである。

 

下の2枚は全く異なるスタイルだが、どちらもわたしには「地図」に見える。

 

(NGV(ビクトリア国立美術館)の展示(以下同)。

Wing Tingimaによる《Minyma Tjuta》は、「セブン・シスターズ」つまり7人の姉妹の逃避行を描いており、最後に彼女たちは空へ移動しプレアデス星団となる)

(Jack Brittenによる《Woorreranginy country》
西オーストラリア、キンバリーの画家には、この絵のように茶色を基調にした描き方が見られる。
別のキンバリーの画家の作品であったが、白人によるアボリジナル虐殺の場所を示した作品を見た覚えがある)
 

アボリジナルアートは意外と「具象」である

 

アボリジナルアートというと高度に抽象化されたもの、さらには抽象化しすぎてわけがわからないもの、と思われがちである。

 

彼ら自身、部族の秘密をあからさまに描くのを避けるために抽象化したという面もあるようだ(これも以前読んだ英語の本によるもので、今出典を確認できない。

たしかそんな記述があった……と思う)。

 

が、アボリジナルアートには秘密性を持たず、一般に公開して差し支えないモチーフの方がはるかに多いはずであり、そうしたものはあえて抽象化する必要がない。

 

たとえばこれらの絵。
 

(Makinti Napanangka、Naata Nungurrayiによる作品)
 

 

赤やオレンジの円や線や点々であり、一見抽象的に見える。

 

しかしわたしはこうにらんでいる。

 

意外とアボリジナルアートって、風景をそのまま表しているんじゃないか……?

 

 

そう思ったきっかけは6年前に参加した、アリス・スプリングスからの1日ツアーであった。

このときはジープでオーストラリアのど真ん中の地域をまわった。

 

見どころは大地そのものだった。

土は赤く、奇岩があり、岩山はときに横たわる動物のようであった。

 

そして山々の連なり。

どこまでもどこまでも広い空の下に赤い土地が広がっている。

 

その色はまさにアボリジナルアートによく見られる赤やオレンジだったのだ。

 

また、その赤い大地に生えている植物は丸くこんもりした小さなかたまり。

少しずつ間隔をあけて点在しており、

 

「アボリジナルアートのドット(点々)みたいだ!」

 

と不意にひらめいたのだ。

 

つまりアボリジナルアートは抽象画ではなく、彼らのものの見方に従って忠実に描いた風景画なのではないか。

 

……というのはわたしにとってはそう見える、というただの仮説であるけれども、そう思いいたった瞬間、それまでに見てきたアボリジナルアートの「わからなさ」が一気にほぐれたように感じたのであった。

 

 

で、後編に続く。

後編が本題である。

 

(Papunyaのアート運動が起こる何十年も前にAlbert Namatjiraによって描かれた、中央オーストラリアの風景。

これは「ザ・具象」の傑作)

 

 

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偏愛・アボリジナルアート

 

普段政治とか経済とか負の歴史とか、そういう気が重いものはなるべく直視せず美しいものだけ見たいというわたしであるが、先述のようにオーストラリアの先住民アボリジナルの人々について本を読み漁っていたのは、アボリジナルアートを理解するためであった。

 

アボリジナルアートはわたしが一番好きなアートである。

それをワーホリ時代、オーストラリア各州の博物館や美術館、アートセンターで見続け、ますますどっぷり好きになった。

そしてそのアートを理解するには、彼らの文化や歴史を知ることが必須だったのである。

 

アボリジナルアートとは何なのか。

 

考え続けてきたこの問いへのわたしの答えを、偏りと不足を承知のうえでまとめたい。

ついでに今回メルボルンで買った本の自慢もしたいものである。

 

 

 

アボリジナルアートの始まり

 

そもそもの話であるが、「アボリジナルアート」というと点々で同心円を描いたものがイメージされやすいが、実は描き方もモチーフも多様で地域性もある。

 

ドット(点々)やクロスハッチング(斜めの線の交差)だけでなくベタ塗りの様式も存在するし、素材もアクリルだけでなく水彩もある。 

色のバリエーションも豊富だ。

 

今や「アボリジナルアートとはこういうもの」という説明自体がナンセンスになってきている。

 

しかしさかのぼるとそのアートジャンルとしての「始まり」は、1970年代に中央オーストラリアにやってきた白人の教師が、アボリジナルの人々に絵を描かせたことにある。

 

彼はまだ若く30代前半だった。

その教師は人々にアクリル絵の具を与え、彼らが儀式や砂絵で受け継いできたパターンをアートという形に置き換えようとしたのである。

 

当時このPapunyaという土地はアボリジナルの人々の保護区であり、保護区と名のつくところにありがちであるが、人々は政府の管理下に置かれていた。

すさんだ暮らしのなか、彼らのアートは紆余曲折ありつつも評価され、次第にジャンルとして確立していったのである。

 

 

アボリジナルアートは「情報」である

 

こうしてアボリジナルアートがアクリル絵の具の絵画として成立したのは数十年前だが、それ以前にアボリジナルには何万年もの歴史があり、受け継いできた膨大な情報があるからこそ、爆発するかのような表現がいっきに噴出した。

 

アボリジナルアートには同心円やU字型、波線など記号的なモチーフがよく見られる。

描かれる文脈によって意味は一様でないものの、例えば座っている人や水の流れ、動物の足跡だったりする。

 

儀式の様子、そしてその道具やボディペインティングが、独自の模様とともに描かれていることもある。

こうしたものは異なる部族には見せない場合もあるため、初期の作品ではあまりに秘密を赤裸々に描いているとして、展覧会に抗議がきたこともあったのだとか(……と以前本で読んだと思うが、正直言うと英語で読んだものは出典を確認できずやや自信がない)。

 

Papunyaの初期の絵はアデレードにある南オーストラリア州立美術館にまとまって飾られており、アボリジナルアートファンの聖地と言ってもよいのではないか。

オーストラリアの全ての州都の州立博物館・美術館(当時閉館していたところを除く)を訪れたわたしとしては、強く強くすすめたい場所である。

 

もちろん中央オーストラリアのアリス・スプリングスにはさまざまなグループのアート・センターが集まっており、より聖地と言えるであろう。

Papunyaのギャラリーもあって、それはそれはレベルが高かった。

 

レベルの高さの指標というのはわたしの好みでありうまく言えないが、見た瞬間まず暖色のあたたかみに包まれ、その後高いデザイン性に脱帽し、

 

もう、もう、もう、もう〜〜〜っっ

 

と一人でワタワタするはめになった。


 

アボリジナルアートはこのように情報の発露であるが、男性と女性では描く内容が異なる。

それはたとえば男性のみが受け継ぐ秘儀があるなど、男女で管轄が異なるためである。

 

そうした性別役割分業から生まれた絵画のモチーフの差については、普段「料理は女がするもの」「ケアは女が担うもの」などの不愉快なプレッシャーに抗おうとしているわたしとしては手放しで面白がれない部分があるが、そんなこと言ってたらアボリジナルアートを見られないので議論は棚上げしておく。

都合の悪い論点はいったんおいておくのがよい。

 

わたしは男性のアーティストが描く力強い儀式の様子を

 

「これは女であるわたしが見てもいいやつ? もしかしてダメなやつ?」

 

などと、公共の場に飾られているのだからいいに決まっているのだろうが、秘密をのぞくような感覚で見るのも好きだし、疲れているときには癒しを求めて、女性アーティストの描くハーブなど植物の絵を見に行くこともある。

男性アーティストによるヤムイモや蜜アリの絵も癒しを感じる。

 

彼らの伝統、慣習、日々の生活に関する情報が、ドット(点々)の下にわんさか隠されているのである。

 

 

と、いうわけで興味のある人は限られるのかもしれないが、アボリジナルアートについて語りたいことはまだまだたくさんあるわけで、わたしはわたしのために書く。

 

気合いを入れて中編に続く。

 

 

(ついに、ついに買ってしまった、大型本『PAPUNYA』)

 

(アボリジナルアートの運動のきっかけを作った白人教師 Geoffrey Bardonによる、それぞれの絵画のモチーフのメモつきの画集という垂涎ものの一冊。

このページの絵にはドット(点々)で埋め尽くすという手法は見られず、ストレートな表現だ。

 

ああ…… 初期の傑作がこんなにたくさん、しかもBardonの解説も充実、もう、始まりのすべてがここにある……!

 

ということを夫と共有したいのに全く興味を示してくれず、これは性格の不一致というやつだろうか。

結婚生活の維持が危ぶまれる)

 


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移民の町

 

 

 

 

腸チフスからの回復期、メルボルン都心部からちょっと離れた地区のアパートで過ごそうと決めたわれわれは、まずブランズウィックで1週間過ごしその後フッツクレーに移った。

 

フッツクレーは移民の町である。

 

オーストラリア自体移民の国(そもそもはイギリスからという意味でも、現在の「多文化」な状況においても)であるが、フッツクレーはベトナム料理屋など、日中韓以外のアジア系商店が続いている。

またアジア系だけでなく、アフリカ系だろうか有色人種が多い。

 

メルボルンの中心部にもさまざまな出自の人が行きかっているが、学生も多い中心部とは異なり、フッツクレーはより生活者としての移民を感じる場所である。

 

われわれが借りたフッツクレーのアパートは「コンロのあるキッチン・専用バスルーム」を条件に入れた中で一番安いものだったが、安いといっても高いのがオーストラリア。

 

しかしこの宿は値段だけでなく物理的な高さもあって、20階にあったわれわれの部屋からは、数キロ先のメルボルン中心部の夜景も、ビルの後ろからのぼってくる朝日も見えたのだった。

 

思いがけず夜景の見えるセレブリティな部屋で暮らした数日のあいだ、やはり観光というより生活の日々を過ごした。

 

午前中にスーパーやディスカウントストアに行き、その日の食材を買う。

帰って昼食を作って食べ、夕方は川沿いの遊歩道へ。

 

橋の下にはボルダリングはじめ運動器具が設置されており、夫はけんすい台で久々にけんすいをしようとしたところ、以前は軽々と棒の上まで上半身を持ち上げていたが今はできなくなっている。

 

腸チフスからの病み上がりでありつい最近まで40度の熱を出していたのだ。

そりゃ体力も筋肉も落ちて当然であるが、夫はしきりに

 

「ショックや……ショックや〜〜」

 

と言って筋力の低下を嘆いていた。

 

とにかくそんなことを言える程度には回復してきたのだ。

夫も「旅を続けよう」と言うので次のフライトを予約し、メルボルンの残りの数日を過ごした。

 

 

夫の料理

 

「料理するときは気をつけろ」と医師に言われていたが、熱が下がった頃、夫はリハビリがてら調理をし始めた。

もちろん手洗いにはいつも以上に気をつけていたし、わたしとしても夫が作った料理を食べたいので大歓迎である。

 

スピードと効率重視のわたしと、面倒な手順を厭わない忍耐強い夫。

わたしが材料を切り、夫が加熱し味付けをするというのが定番の分担になった。

 

メルボルン中心部を離れる前、アジアンスーパーでお好み焼き粉や鍋キューブを買い込んだわれわれは、ブランズウィックではそれらを使って日本食を作った。

 

そしてフッツクレーでは夫の大好物であるステーキを、メルボルンの夜景を見ながら食べた。

 

ほぼ毎日ケンカしながら、それでも一緒に食事をして仲直りした。

腸チフスをなんとかやり過ごしたわたしたちの新婚旅行は、いちおうまだ続いているのだった。

 

 

*夫の料理*

 

(シーフードお好み焼き。

ふわふわした生地、なつかしいソースとマヨの味が、もう……)

 

(余っていた麺とチーズを入れたモダン焼き。

ボリュームたっぷり)

 

(鍋キューブを使った鶏野菜煮込み。

鶏肉を焼いてから煮込んでいるため香ばしさが加わり、かなりおいしかった)

 

(賞味期限間近の食品のディスカウントストアで買ったプロシュート。

すばらしくうまかったので、何度も買いに行った)

 

(このビールはフリーマントルというパース近くの町のもの。

フリーマントルはワーホリ中に一時期滞在した、素敵な古本屋とカフェがある港町。

なつかしさにつられて買ったビール)

 

(旅の自炊の定番、パスタ。

ひき肉、玉ねぎ、にんじん、トマト、ニンニクの芽を使ったボロネーゼ。

チーズと生ハム、ノンアルコールシャンパンは全て格安店で)

 

(肉奉行の夫によるステーキ。

焼く前に塩をかけて常温に戻している。

付け合わせの野菜は一度茹でてからバターでソテーしている。

夫の作るご飯は外食するより豪華でおいしい)

 

 

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体力のない夫

 

夫が腸チフスから全快するまで、メルボルンで療養生活をしようと決めたわれわれである。

 

抗生物質を飲み始めてから数日経つと夫の熱は下がっていった。

そこでリハビリをかね宿から近くのアジアンスーパーなどに一緒に買い出しに行くと、夫は「ふらふらする」と言い出した。


10日間も高熱が続いたので仕方がないが、体力はまだまだ元通りからは程遠かった。

 

夫は旅に関して普段からわたしまかせであまり頼りにならない。

しかし身体能力が高く頑丈で、これまで体力的な心配は全くなかった。

だからこそ夫がハード、私がソフトの部分を担ってこれまで旅をしてきたのだ。

 

わが国のアニメ映画には「飛べない豚はただの豚」というセリフがあったような気がするが、今の夫に関していえば「力のないハゲはただのハゲ」。

宿の移動の際に共用の荷物はわたしが持つことにしたが、あまりの重さにめげそうになった。

 

 

とんだオーストラリア旅行になったものの、発症したのがメルボルンでよかった。

わたしはかつてワーキングホリデーでメルボルンの語学学校に通っていたためわずかではあるが土地勘があり、通りの名前や位置関係もなんとなく覚えがある。

 

病院で日本語のサポートが受けられたことや、オーストラリア人が移民や外国人に慣れているということもありがたかった。

 

メルボルンには縁があるのかもしれない。

当初は3日だけ立ち寄るつもりが、結果1か月近くまで滞在をのばしたのだった。

 

 


魔法のコーヒー

 

療養のために予約したアパートは中心部から北へ数キロ、ブランズウィックという地区にあった。

それはわたしが6年前、ワーホリ中に住んでいたシェアハウスのあるエリアだ。

 

医師から通院や再検査の必要はないと言われていたため、病院の近くに居続ける必要はない。

しかし夫を休ませるにはドミトリーではなく個室がよく、そもそも行動制限は特にないとはいえ、共用トイレを使うのはまだちょっとはばかられる。

そしてオーストラリアは外食費が恐ろしく高いため、自炊ができる宿がベストだ。

 

費用を抑えたいということもあって範囲を広げてキッチン付きの宿を探した結果、ブランズウィックの貸しアパートを見つけたので予約した。

本を読んだりブログを書いたりしながら、久々に「生活」をして過ごすことにしたのである。

 

ブランズウィックに移り、夫の体力は徐々に平常に戻り始めた。

近くのスーパーから始め、公園、カフェ、遠くのスーパーへと行動範囲を広げた。

 

ブランズウィックには目立った観光資源はないが、感じのいいカフェが住宅地の中に点在しているし、徒歩圏内には店が集まるシドニーロードという通りがある。

 

かつて5か月住んだ地区。

シドニーロードの本屋、古本屋、図書館、古着屋、格安スーパーには何度行ったことか。

見覚えのある壁画や店を見ながら歩くうち、懐かしさがこみあげてきて胸が熱くなった。

 


ブランズウィック滞在中、われわれは散歩の目的地もかねてカフェめぐりをすることにした。

 

メルボルンはコーヒーの町。

「ロングブラック」「フラットホワイト」など日本とは違うコーヒーの呼称や淹れ方がある。

そして今回コーヒーのメニューを見ると、見慣れないものがあった。

 

その名も「MAGIC」。

これは以前はなかった。

 

調べてみると近年開発された淹れ方で、エスプレッソよりも少ない水の量で抽出したコーヒーにミルクを足したものだという。

 

たいへん気になるので注文してみる。

 

非常に、おいしい。

なんじゃこりゃ。

 

ラテやフラット・ホワイトと比べて濃いが、苦いわけではない。

豆の味がしっかりと感じられる。

今までに飲んだミルク系のコーヒーの淹れ方で一番好きである。

 

観光地には行けなかったものの、思いがけずメルボルンの新しい味を知ることができた。

このコーヒーに出会えたことはわたしにとって大きな収穫だ。

 

その後わたしと夫はカフェに行くたびに「MAGIC」を注文し、それはたしかに魔法のようにおいしいコーヒーなのであった。

 

 

(ブランズウィックにあるSMALL AXEというカフェ。

「MAGIC」を注文すると店のお姉さんが「ゴージャス!」とひとこと。

ワーホリ時代、通りかかるたびにいつも入ってみたいと思っていた店)

 

(宿からシドニーロード方面へ向かう途中、THE NICHOLSON COFFEE AND EATERYの「MAGIC」。

泡がしっとりしていて納豆の味(発酵味のある、夫とわたしの好きな味)がする。

休日の朝、コーヒーを楽しむ人でほぼ満席。

ラテアートもかわいい)

 

(シドニーロードのMARKET LANE COFFEE。

奮発してシングルオリジンのプアオーバー。

グアテマラとコロンビア、どちらも酸味のあるまろやかな味。

懐かしいオーストラリアの味だった)

 

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夫のインスタ⇩ 夫はインスタをわたしの悪口を書く場にしようと決めたようだ。

 

 

 

オーストラリアの向かう先

 

 

 

オーストラリアはわたしにとって特別な国だ。

 

ワーホリに行こうと決めたとき、ビザが取りやすそうだという理由で選んだ国ではあった。

しかし当時わたしはどうせ行くならこの国を知り尽くしてやろうと思っていた。

 

今はもうそれは不可能だと知っているが、わたしは本気だったのだ。

生まれて初めて全力で何かに取り組んだ経験だった。

 

1年8か月を過ごし旅した国。

その歴史は知れば知るほどひどいものだったが、知ることの意義を教えてくれた国だ。

 

 

オーストラリアの歴史や問題についての多くは語学学校の先生がすすめてくれた本で知った。

わたしは今回先生の家を訪ね、話がその本に及んだとき先生にきいた。

 

「こうした歴史を知った以上、わたしは『オーストラリアはとってもいい国』とは口が裂けても言えません。

それでも自分の生徒に自国の歴史を知ってほしいと思いますか」

 

すると先生とその奥さんは即座に

 

「オフコース(もちろん)」

 

と言った。

 

先生はオーストラリア生まれの白人であり、広い家と高い学歴を持ち優秀な子どもたちもいる。

しかし先生は、自分の恵まれた環境が先祖による過去の収奪のうえに成り立っていることを知っている。

だからこそ学生にあえて自国の歴史を隠さず教えるのだろう。

 

(そのあと先生に「ところでフミオ•キシダはどうなんだ」と聞かれたが、わたしはわが国の現状を恥ずかしさのあまり隠したくなった。

先生はたまに痛いところをついてくる。

これだからインテリは面倒だ。)

 

 

わたしが初めてメルボルンを訪れたとき、オーストラリアでは同性婚が可能になった直後だった。

新聞には法律婚をした同性カップルの記事が載り、先生はこの立法に関して意見を書くよう語学学校の宿題に出した。

 

わたしはその宿題に取り組みながら、

 

「オーストラリアはなんて開かれた国なのだろう。

日本と全然違うじゃないか」

 

と思ったのだ。

その後この国の歴史を知っても、あのときの明るい変革のムードは忘れられない。

 

まだ何も知らなかったわたしが素直に抱いた期待。

その全てが嘘ではないのだと今も信じたい気持ちがある。

 

今オーストラリアは少なくとも建前上「白豪主義」から脱却し、人々はカラフルな「多文化共生社会」を新たなアイデンティティにしようとしている。

 

わたしはオーストラリアの「自分探し」の帰結が、差別や搾取のないほんものの共生であることを願う。

これからも疑いながら注視し続けたいと思う。

 

 

 

(メルボルンのフッツクレーにあった壁画。

今回メルボルンに着いた日、国会議事堂前でもパレスチナでの戦争に反対する集会が行われていた。

 

6年前のワーホリ中も、オーストラリア政府による難民への処遇、クルド人、LGBTQなどに関してデモが行われているのを頻繁に見た)

 

 

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夫のインスタ⇩ゴツゴツした黒い岩肌が済州の海の特徴

 

 

 

まやかしの「多文化共生」

 

 

6年前、ワーキングホリデーでオーストラリアにいたわたしは、博物館めぐりをしながらこう思っていた。

 

「やけにアイデンティティに関する展示が多いな。

オーストラリア人は自分の出自や所属にそんなに関心があるのか」

 

しかしこの国の歴史や現状を知ると納得もいく。

 

オーストラリアには移民や混血が多く、親と子で出生国が異なることも珍しくない。

そもそもこの国はイギリスからの入植者たちが先住民であるアボリジナルを虐殺し、大陸丸ごと奪った歴史が根底にある。

 

そうした国で生きることを考えたとき、オーストラリア人とは何なのか、自分は何者なのかとルーツを問うのは自然かもしれない。

 

オーストラリアの人々は、いや、この国そのものが自らを定義づけようと壮大な「自分探し」をしているのだ。

 

 

オーストラリアは「多文化社会」を打ち出しており、旅行者からみると「フレンドリーで移民や外国人にやさしい国」のイメージがあるのではないか。


「多文化共生」がさもこの国の伝統のように見えてしまう。

しかしそれはウソだ。

 

オーストラリアの混血の背景は必ずしも幸せな恋愛ではない。

白人男性が原住民アボリジナルの女性をレイプし、その結果生まれた子もいる。

 

政府や教会によって子どもはアボリジナルの母親から引き離され、英語を強制され、白人流の教育を受ける。

その結果アボリジナルの文化を劣ったものとして感じ、しかし白人と対等には扱われないという、どちらにも所属できない不安定な人生を送ることになる。

 

こうした強制的に引き離された人々は「盗まれた世代」と呼ばれている。

 

アボリジナルがようやく「人間」として扱われるようになっても、問題は解決したわけではない。

 

アボリジナルは本来先祖代々の土地と結びつく生活形態であるにもかかわらず、政府によって土地と切り離された。

その結果男性はコミュニティ内での役割を奪われ酒にはしっていく。

 

アボリジナルの拘禁率は異様に高いが、それは「彼らが野蛮な民族だから」ではなく「生まれながらに不利な立場を強制され差別され続けているから」である。

誰に非があるかは明白だ。

 

こうした政策は「白豪主義」と呼ばれ、文字通りこの国は「白いオーストラリア」を目指していた。

今でこそアボリジナルアートが公共の場で使用されたり、先住民文化を知るツアーが主要な観光資源の一つとなっているが、つい数十年前まで「黒い彼ら」の文化を否定し続けていたのだ。

 

 

メルボルンやシドニーにいるだけではアボリジナルの存在は見えにくい。

いくら公共施設の但し書きやアナウンスで「先住民に敬意を払っている」と言っても、大都市の表舞台に出てくる人々の大多数は白人なのである。

 

わたしは6年前、西、北、中央オーストラリアを旅して初めて「彼ら」を見た。

ブルーム、アリス•スプリングス、ダーウィン、キャサリーン。

そうした町ではじめて本の中の「彼ら」が実在すると認識した。

 

見えない存在であれば差別は他人事ですむ。

日本でも霞ヶ関の人間には貧困が見えないのではないかと感じるが、オーストラリアでも、シドニーやキャンベラからどれだけアボリジナルが見えているのか疑問である。

 

 

先住民だけでなく、移民もまた対等な社会経済構造の中にはいない。

 

ワーホリ中、オーストラリア西部のイチゴファームで働いたことがあった。

そこではわたしのようにワーホリで来たアジア人や、さまざまな国からの移民が働いていた。

 

季節はずれのイチゴファームは収穫できるイチゴが少なく、長時間腰をかがめて作業をしても歩合制の給与は微々たるものだった。

 

他のファームで数倍稼げていたわたしはすぐにイチゴファームを辞めたが、ここで家族を養っている人々は辞められないだろう。

ターバンを巻いたおじさんたちは今もそこで働いているのだろうか。

 

オーストラリアのスーパーで安いイチゴを見るたび、わたしはそのファームのことを思い出す。

見えていないだけで日本も同じ構造であろうが、オーストラリアの第1次産業を支えているのは移民や外国人なのである。

 

 

後編へ。

 

 

(メルボルンではちょうど写真展が行われており、中心部を歩いていると、国内外の歴史的瞬間を捉えた写真が大きく掲げられていた。

 

これは1975年、当時の首相がアボリジナル Gurindji族の長老に、彼らの土地だと法的に認められた場所の土を手渡しているところである。

アボリジナルの土地権について流れが大きく変わった瞬間。

 

しかしもともとこの大陸に住んでいたアボリジナルが、後からやってきて全てを奪った白人の法にのっとり、白人が納得するような証拠を出して土地との結びつきを証明しなければならないこと自体が理不尽である。

 

ちなみにGurindji に関しては日本人の歴史家、保苅実の『Gurindji Journey』で知った。

この本はわたしが今まで読んだ本のなかでベストテンに入る面白さ。

アリス・スプリングスの博物館でスタッフの女性が「この本を読んでアボリジナルへの理解の仕方が変わった」と言って勧めてくれ、読むと本当にその通りの内容だった。

 

日本語でも『ラディカル・オーラル・ヒストリー』として出版されている。

アボリジナルの人々にとっての「カントリー」の概念は、この本を読むとイメージがわく)

 

 

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夫の失言

 

 

 

 

 

とにかく夫の病名が特定された。

あとは抗生物質を毎日決まった時間に6日間飲むだけ。

 

退院した翌日から抗生物質を飲み始めたが、もちろんすぐに効くわけではない。

夫は相変わらず悪寒、高熱、発汗、解熱のサイクルを繰り返しており、辛い状況は変わらなかった。

 

しかし高熱はあるが危険な状態ではないと医師は言うし、どういう場合に救急車を呼んだらよいかも確認できた。

 

指標ができたのでもう迷わずにすむ。

専門医の連絡先を教わりいつでも連絡をとれる状態になったことも、安心材料の一つになった。

 

夫は死なない。

 

わたしは安堵したと同時に張りつめていたものが緩み、その緩みからたまっていたストレスがこぼれ落ちていった。

 

 

ある日の夕方わたしはどうしても眠くなり、予定していた時間に起きられなくなった。

そしてはっと目が覚め、そうだ夫の体調を専門医に連絡しなくちゃ、と焦った。

 

熱は何度で、悪寒や発汗の様子はどうだろう。

「今の状況を教えて」というと、夫はこう答えた。

 

「4時に起きるって言うてたけど、今6時」

 

それは、わたしの、状況で、ある。

 

もう何年前のことか忘れたが、かつてとある議員の「ミュージカル調パワハラ」というものがワイドショーを席巻した時期があった。

それはたしか女性議員が男性秘書に対し、

 

「このハゲーーー!!! 

ちーがーうだろ、違うだろっ!!」

 

と高圧的な叱責を繰り返したというものだった。

 

わたしはこのとき、それと同じセリフを脳内で叫んだ。

今では「不適切にもほどがある」などと言われるのかもしれないが、夫の間の抜けた答えに直面したわたしにこれ以上適切な言葉があるだろうか。

 

夫に悪気はないとわかっていても、寝過ぎてしまったことに対する嫌味のように感じた。

これまで緊張によって抑え込んでいたストレスがあふれ出てきたのである。

 

高熱に耐えるだけで夫は精一杯であっただろう。

しかしわたしも慣れない事務の連続だった。

 

当初3日の予定だったメルボルン滞在を延ばしたことで、宿やフライトのキャンセル、病院から近い宿探し、医師との英文でのやりとり、保険会社への説明などが、次から次へと必要になった。

 

夫が悪寒で震えているあいだ、生きているならそれだけでいい、なんでもしてやろうと思っていた。

しかし夫は死なないとわかった途端、常日頃から全ての予約をわたしが行い、よってキャンセルや再予約にあたり全てわたしあてに連絡が来ることを理不尽だと思った。

 

電話やメールが来るのが怖い。

しかしケータイを確認しなければ気がすまない。

 

さらにその後、保健所だか保健局だかから電話で「夫に料理をさせないように」と指導されたことも追い討ちをかけた。

 

夫は今病気であり食べられるものも限られるため、それまで泊まっていた共用トイレの安宿から、専用トイレとキッチン付きのホテルに移った。

もちろん夫が高熱である今私が料理するけれども、夫はいつまで料理をしてはいけないというのだ。

うちは性別役割分業など採用していないのだ。

 

明るい日差しのもと談笑する人々を見るのが辛くなり、外に出るのが億劫になった。

重い腰をあげ買い物に行き、部屋に戻ると涙が止まらなくなった。

 

夫が発症して以来、わたしは夜連続して熟睡できたことがなかったが、このタイミングで生理がきたので睡眠不足が長引いた。

夫はわたしの苛立ちに対して苛立ち、お互い孤立した状態だった。

 

異国で緊急事態が起きるというリスクも引き受けて旅をしているつもりだったが、いざそうなってみると「誰か代わりに水を買いに行って」ということばかり考えている。

 

わたしもいい加減、何も考えず寝たい。

しかし自分以外に、夫に水を買ってきてやれる人間はほかにいないのだ……。

(ちなみにオーストラリアで水道水は飲めるが、このときはあらゆるリスクを避けようと夫の分は買いに行っていた。)

 

夫に療養期間が必要なのは間違いないが、わたしにも休息がいる。

夫は体力、わたしは平常心を取り戻さねばならぬ。

 

 

わたしのストレス解消法

 

夫は前から「好きなとこ行ってき」とわたしに気晴らしの観光をすすめていたが、夫から長時間目を離すのも怖く、またスーパーに行ったり調理したりしなければならないため、ゆっくり観光できる状況ではなかった。

 

しかし発症から10日が過ぎ、夫の熱も下がる兆候が見えた。

わたしは美術館に行ったり本屋に行ったりし始めた。

 

会社員時代、忙しさと理不尽さに絶望していた頃よく本屋に行ったように、わたしは抱えきれないストレスがあるとあと先考えず本を買ってしまう。

 

オーストラリアの物価はもともと高いが円安がさらに追い打ちをかけ、さらにキッチンつきの個室をとる必要があったわたしは、もうこれまでの節約など取り返しがつかない事態に直面して金銭感覚が麻痺していた。

それまで毎日その日の支出を計算していたが、メルボルンでは家計簿をつけるのをやめた。

 

そしてアボリジナルアートの本を、新刊で何冊も買った。

 

アボリジナルアートはわたしにとって癒しであり、見ていると気持ちが落ち着く。

高いけれどその分の価値があり、しかも日本で買うことはできない。

 

夫の発汗は相変わらずであったが熱は下がりはじめて快方に向かい、もう病院には行かずにすみそうであった。

メルボルンの病院近くに滞在する必要はない。

 

わたしは夫に中心部から少し離れた場所での療養を提案した。

ホテルの予約サイトを見ると、わたしがかつてワーキングホリデーで住んでいた地区にちょうど貸しアパートがある。

 

中心部よりも宿代は安くなるし、目立った観光地はなくても、本を眺めたり散歩したりしながらゆっくりしようじゃないか。

 

メルボルンのアパートでの生活は、きちんと心身を整えるチャンスだ。

そうして夫とわたしのメルボルンアパート生活が始まったのだった。

 

 

(NGV(ビクトリア国立美術館)にすごい作品があった。

カメラに収まりきらない横長だったためこれは一部のみ。

 

Tim Leura TiapaltjarriとClifford Possum Tiapaltjarriの共作。

どちらもアボリジナルアート界の超重要人物である。

 

細かいドットにより迷彩柄のような形ができており、そこに人やら植物やらが描かれている。

彼らの土地と、そこにある伝統、祖先とのつながり、文化が画面いっぱいにある。

 

ワーホリでアデレードに滞在していたとき、Clifford Possumの作品を見た。

そのときも圧倒された。

あまりに圧倒されて動けなくなるほどズドンと衝撃を受けたのを、今もよく覚えている)

 

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夫の尿

 

 

 

 

夫が病院に一泊することになり、通訳さんとわたしで夫に「携帯電話の充電器を貸してください」「喉が渇いた」「ワイフが後で来ます」など必要になりそうな表現を英語でどう言うかを教えつつ、病室が決まるのを待った。

 

その間夫は頻繁に尿意をもよおした。

何時間も水を飲んでいなかったが、おそらく点滴のためと思われる。

 

夫は感染症の可能性があるため、共用のトイレを使うことは許されなかった。

看護師に尿瓶を持ってきてもらったが、それは予想と異なりいかにも「エコな再生紙」といった素材の茶色い紙製のものであった。

 

この期に及んで夫はぐずぐずとためらいだした。

 

「え〜、ここでするん? え〜」

「女は毎月血ぃ垂れ流しやで、おしっこくらいはよやりよ」

 

といった会話をしつつ夫をなだめ、夫もやっと観念して尿瓶を手にした。

わたしに誰か来ないか見張りをさせたうえで、もそもそと行動に移した。

 

わたしが仕切りカーテンを握りながら待っている背後で、

 

ジャーーーー……

 

という威勢のよい音がする。

新婚旅行に来たはずが、もう新婚のムードなど微塵も感じられないとつくづく思った。

 

そしてさらに夫は自分の尿のあまりの量に驚き、

 

「見てみ」

 

と言ってソレを見せてきたのだ。

 

エコな尿瓶の中に並々と注がれた、泡だった黄色い液体。

それは生ぬるいビールそのものであり、今後ジョッキでビール飲む際にはこのときの光景を思い出すに違いない。

 

夫はあと2度ほど泡だった尿を出し、もう抵抗感も恥じらいもなくなったようであった。

 

 

そんなこんなで日付けが変わり夜も深くなったが、病室に移動できる気配がない。

ずっと付いていてくれた通訳さんは、翌日の手配をしたうえで帰宅。

 

わたしは夫の横でイスに座って待ち続けたが、その状況を見かねた看護師が

 

「よかったら、ベッドを持ってきてあげる。

あなたもとても疲れているように見えるから」

 

と言って、わたし用にベッドを持ってきてくれた。

 

夫はまたひどい悪寒が出てきてぶるぶる震え始めたが、しばらくするとおさまったようだった。

わたしはいつのまにか寝てしまい、それは久々の深い眠りであった。

 

 

ハゲの連携プレー

 

翌日夫に声をかけられ目を覚ますと、すでに通訳さんも来てくれていた。

結局病室は決まらず、救急外来の処置室で一泊したのだ。

 

夫に朝食が運ばれ、看護師の女性はわたしにもコーヒーをくれた。

 

その気づかいが本当にうれしかったのでわたしは何度もお礼を言い、彼女は「No worries.(心配するな、大丈夫)」と答えた。

オーストラリア人はこの言葉を頻繁に使うが、このときほどありがたく感じたことはなかった。

 

そしてついに感染症の専門医が診察に来た。

ひと通りの説明をまた最初から繰り返し、やはりこの専門医も「デング熱などの蚊を媒体とした病気ではないか」という見解だった。

 

検査結果が出るまで病名ははっきりしないが、現状夫に命の危険はないという。

退院してホテルに帰り、検査結果はメールで受け取るということになった。

 

診察が終わると、夫はのんきにこうつぶやいた。

 

「みんな坊主やなあ。

ハゲの連携プレーやな」

 

日本人スタッフ常駐のクリニックでは、最後に診察した医師はスキンヘッドだった。

そして移った先の感染症のスペシャリストもスキンヘッド。

 

夫はハゲを信頼しているようだった。

わたしもハゲのハゲによるハゲのための診療なので、きっと快方に向かうだろうと信じることにした。

 

 

病院を出るまで支えてくれた通訳さんと別れ、また夫と2人になってホテルの部屋へ帰った。

 

翌日医師からメールが届く。

予定より早く検査結果が出たらしく、夫はデング熱などではなく腸チフスであるとわかった。

 

食べ物が由来する病気。

インドネシアの何かがあたったのであろう。

 

原因がわかったので、今度こそ適切な薬が飲める。

医師が処方箋を送っておいたというドラッグストアまで急いで抗生物質を取りに行き、夫に飲ませる。

 

あとは薬が効くのを待つのみだ。

がんばれ夫。

 

④へ。

 

(NGV(ビクトリア国立美術館)、Wintjiya Napaltjarri作。

座った女性や地中の食べ物を採るための棒などが、ヒエログリフのように描かれている。

白地に赤のみ。

アボリジナルアートのデザイン性にまた驚かされた)

 

 

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「パートナー」

 

 

と、いういきさつで病院に入ったわれわれだが、日本人の通訳さんの存在はわれわれにとって非常に大きかった。

通訳は海外旅行保険に含まれているため、最初の病院で手配してくれたのだ。

 

わたしは旅行に困らない程度の英語はわかるが、医療用語はお手上げである。

まして夫の状況を正確に伝えるのは、たとえ携帯電話の翻訳機能を使ったとしても不安だ。

 

日本人の通訳さんはとても有能で、医師とわれわれの言語的な仲介をするだけではなく、保険や病院の事務の手順、起こりうる事態を想定したアドバイスをしてくれた。

 

手続や病院でのやりとりといった、わたしが対応しきれない部分を頼ることができる存在。

この通訳さんに救われたのは、夫よりむしろわたしのほうだった。

 

 

病院ではまず、受付で事務手続を行う。

その際わたしも名乗らなくてはならなくなった。

 

わたしと夫は名字が違う。

変な勘繰りを避けるため「夫」と説明しているものの、今は「パートナー」というほうがより正確だ。

日本から転出した時点で住民票の「妻(未届)」という身分もなくなり、今われわれは書類上赤の他人だからである。

 

一昨年、日本で夫が盲腸を疑って救急車を呼んだことがある。

2人で救急車に乗り込み、「妻」を名乗ったわたしが書類に名前を書くと、名字が異なることに気づいた救急隊員は腹を抱えて横たわる夫に対し、わたしが何者であるかの説明を求めた。

 

「うちは、夫婦別姓がいいので、籍は、入れてないけど、奥さんです」

 

と死ぬほど痛そうに顔を歪ませながら、夫は律儀に理由を説明していた。

 

メルボルンの病院でもまた不愉快な説明を強いられるのではないかととっさに身構えたが、事務に

 

「de facto(事実婚)のワイフ」

 

と言うと、

 

「ああ、パートナーね」

 

という感じで終わった。

 

そもそもオーストラリア含め世界の多数の国では、結婚に際し名字を変える必要はない。

よってわたしが「ワイフ」と言ったところで疑問を持たれなかったのであろうが、ともかくこのときオーストラリアでは「パートナー」のひと言ですむのだということに拍子抜けすると同時に、わたしは夫の家族として難なく認められ、第一関門を突破したような気分になった。

 

 

 

救急外来にて

 

通訳さん含め3人で処置室に入ると、若い男性医師がやってきた。

医師は厚切りジェイソンにそっくりであった。

 

一通り症状や経緯、訪れた場所に関する質問をされ、そのほとんどを夫ではなくわたしが説明し、通訳さんが英語にして医師に伝える。

それは夫が普段からスケジュールや地名をほとんど把握しておらず平時でも答えられないためであるが、当事者の夫を取り囲んでジェイソンとわたしと通訳さんがやりとりを応酬し、夫はまな板の上の鯉……いや、診察台の上のハゲであった。

 

ジェイソンはわれわれが長期旅行中であり、インドネシアの前はフィリピンやらスリランカに行ったと聞くと

 

「むっちゃうらやましい」

 

と言い、わたしは海外ドラマで見るような医師のフレンドリーさは本当だったのだと知った。

 

そして再度の血液検査。

夫が血を抜かれている間、わたしは血が苦手というのを口実に待合室に戻り一人になった。

 

夫のそばには通訳さんがいるので安心だ。

この一連の事態で初めて、他人に夫をまかせて一息つくことができた。

 

採血を終えわたしが処置室に戻ると、ジェイソンはこう提案した。

 

「明日の朝、感染症の専門医が出勤する。

今晩入院すれば翌朝診察してもらえるし、夜中に何かあっても対応できるけど、どうかな?」

 

このときすでに、夜。

 

通訳さんの助言を受けて保険会社に電話し、キャッシュレス対応の上限額などを確認のうえ、急遽一泊入院することに決めた。

 

夫は外国で一人になることを不安がっていたが、わたしはほっとしていた。

夜中に夫の病状が急変しても、病院なら助けてもらえる。

 

病室が決まるまでのあいだ、点滴を受ける夫のそばでしばらく待つことになった。

 

③に続く。

 

 

(NGV(ビクトリア国立美術館)のアボリジナルアート。

Gwenneth Blitner作。

 

アボリジナルの人々は自分の「カントリー」の植生をよく知っている。

アボリジナルアートというと点々(ドット)が有名ではあるが、このようにドット以外を用いて描く画家も多い。

この花々の絵を見ていると、凝り固まった肩や気持ちがすぅーっとほぐれていくような気がした)

 

 

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