ごきげんいかがですか
金曜日は 明治の翻訳王と言われた森田思軒(しけん)の伝記をご一緒に。
ノート風にまとめています。
東京へ
興譲館退塾後 しばらく心労で病臥に伏す。(布団蒸し未遂事件で逃げ帰った)
しかし、次第に元気になり、矢野龍渓(りゅうけい)とあって、今後の相談をしている。
そして、東京行きを決心する。
※矢野は慶應義塾大阪分校長だった人。そのとき世話になって入学した。
その時に「留別(りゅうべつ)の詩」という漢詩を残している。
明治15年10月。
ついに21歳の思軒は再び東京に行く。(慶應義塾で18歳まで学んでいた。)
矢野龍渓に歓待される。そして、「漢学より、洋書を学べ」と諭される。
そして、文人になるように勧められる。(政界への進出を進めなかった。)
心は迷いながら、矢野龍渓の勧めに従って、洋書の独学(復習)を熱心にした。
そして、11月に改進党系の郵便報知新聞社に入社する。
1月には自分の漢詩を「沈紫生」の名で載せる。
これが評判になり、矢野龍渓に「経国美談」の巻末に載せるギリシャ史抄の漢訳を依頼される。
※経国美談は、矢野龍渓の政治小説。2冊からなり前編は1883年、後編は1884年刊。 古代ギリシャの歴史に取材し、ペロビダスとエパミノンダスの2人を主人公にテーベ勃興の一部始終を描写する。前編はテーベの士たちが国に民政を回復するまでを描き、後編はスパルタの侵略を退けてテーベがギリシャの盟主となる過程を描く。(ネットより)
しかし、思軒の政治への関心は捨てきれなかった。
明治16年8月 大隈重信の長屋に転居し、食客となる。(30人ぐらいはいた)
明治16年10月改進党に入党する。そして、機関誌の編集に関係する。
作家にして政治家であったビーコンスフィールド(イギリス)に関する文章を書く。自分を投影して執筆したものと思われる。
「ビーコンスフィールド候起身ノ事を記ス」獱笑軒学人(びんしょうがくじん)
※初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリは、イギリスの政治家、小説家、貴族。ユダヤ人でありながら保守党内で上層部に上り詰めることに成功し、保守党首となり、2期にわたって首相を務めた。(ネットより)

まとめ
郵便報知新聞に入社した。
矢野龍渓が書いた「経国美談」の頭評を漢文で書く。
前巻の巻末にもギリシャ史を漢文で載せる。
さらに後編のあとがきで小説論を述べ、初めて「思軒」の名を使う。
秀逸な内容で一目注目を浴びる。
社内で文才は公認された。
忙しい生活が続き、政界への関心は薄れていった。
※記者として忙しい日々が始まった。
今回はここまで。