どうも、第八天魔王です。


勝敗予想負け越しの禊として何か記事を書こうかと思った時に、真っ先に思い浮かんだのが大会中に何度も述べた「伝説の監督」についてだったので、今回のテーマはこれで行かせて頂く。


俺は昔の高校野球については無知だし、掘り下げ過ぎるとにわかファンを置いてけぼりにしてしまうので、最低限抑えておくべき方々のみマークする。




Chapter 1:「名将」とは?


さて皆さん。「名将」と言えば誰を思い浮かべるだろうか?


今春選抜で初優勝を飾った健大高崎・青柳監督を挙げる人もいれば、ドラマ「下克上球児」のモデルとなった昴学園・東監督を挙げる人もいる。



もちろんそれは人それぞれで正解は無いし、十人十色だろうけど、残念ながら彼ら全員を取り上げてはキリがなくなってしまう。


という訳で今回はその中でも特に「伝説を残した」監督にスポットを当て、ピックアップしていこうと思う。




Chapter 2:「レジェンド」とは?


それなら「伝説を残した」とは何ぞやという話になるのだが、これもまた人によって回答は多種多様だろう。


炎上回避のために前置きしておくと、これにも正解は無い。


しかし「名将」と呼ばれる数多の監督の中でも


・圧倒的な強さで一時代を築き上げた

・白河越え等、偉業を達成した

・高校野球の価値観を変えた


これに該当する方はごく少数なのではなかろうか?


甲子園で勝つ事の難しさが例年語られる中で、常勝軍団を率いる方は紛れもなく「レジェンド」だろうし、誰も成し得なかった偉業を達成させた方も「レジェンド」だろう。

また既成概念に縛られず、高校野球そのものの価値観を変えた方も「レジェンド」と言えそうだ。




Chapter 3:一時代を築いた監督


ここからはそんなレジェンドの皆さんを紹介していこうと思う。


当項で述べる「一時代を築いた監督」と次項「偉業を達成した監督」については、ググればわかる話なので簡潔にまとめる。

また「価値観を変えた監督」と被る場合はそちらを優先するものとする。


ただし大昔の高校野球については無知であり、歴史の授業をする気は無いので、東洋大姫路の赤鬼・青鬼の名コンビ等々はハショらせて頂く。


では参る。


⑴ 渡辺 元智


神奈川の名門・横浜高の監督を長年務め、春3回・夏2回の優勝を誇る名将。

「平成の怪物」松坂大輔擁した世代では秋春夏三連覇、県大・地区大・国体含め9冠を達成し、この記録は未だに破られていない。


部長・小倉清一郎氏との名コンビネーションで長らく東の横綱として君臨していたが、晩年は継投策が裏目に出て試合をぶっ壊す事も多かった。

そのため横浜低迷の起点は後任のヒラタ政権時ではなく、渡辺氏の晩節にあるのではないかと言われている。


現在は解説者としてのイメージが強い。


⑵ 中村 順司


知る人ぞ知る伝説の高校・PL学園を率いた監督。優勝回数は春3回、夏3回の計6回で、主な教え子にKKコンビ、立浪和義、松井稼頭央らがいる。


甲子園通算勝利数は58勝と歴代3位、勝率は.853と同じく勝率8割超の西谷、モンマの両力士監督を超え堂々の1位を誇る。



⑶ 高嶋 仁


約半世紀に渡り智辯学園・智辯和歌山の監督を務め、今春選抜で西谷親方に抜かれるまで甲子園通算勝利数で14年間1位の座に君臨し続けたレジェンド。

魔曲「ジョックロック」から来る数多のドラマ、また彼の仁王立ちは智辯和歌山の名物として親しまれた。

平成初期から2000年初頭にかけては泣く子がさらに泣くほどの強さを誇り、10年の間に優勝3回準優勝3回と結果を残したが、2010年代は投打噛み合わず低迷。

しかし17夏選手権で興南に大逆転勝利を収め初戦突破すると、現広島・林晃太を中心とした黄金時代が到来。
18春選抜で準優勝を果たしその年の夏を以て勇退。有終の美を飾った。


⑷ 西谷 浩一


今を代表する高校野球界の絶対王者・大阪桐蔭を率いる親方監督。

二度の春夏連覇を達成し甲子園優勝回数は計8回と異次元の数値。全国各地から優秀な選手をかき集め常勝軍団を作り上げる様は大学・社会人チーム顔負けであり、界隈では「中日より強いのでは?」という噂も・・・。


甲子園通算勝利数では智辯和歌山・高嶋元監督の壁が高かったが、それも時間の問題であり今春選抜でついに追い抜き歴代1位に立った。


恰幅の良さからファンからは「親方」「西谷関」と呼ばれている。




Chapter 4:偉業を達成した監督


ここでは白河越え等といった偉業を達成した監督を紹介していく。


津軽海峡を越えた方や、白河を越えた方。琉球の島に優勝旗をもたらした方、等々。


また複数校で甲子園優勝を果たした方も簡単にだがピックアップしていく。


⑴ 香田 誉士史


駒大苫小牧元監督。誉士史と書いて「よしふみ」と読む。初見では絶対わからないね。

「雪国では甲子園優勝は無理だ」と言われた中で、マー君こと田中将大を育て上げ、04夏に選抜優勝校の済美を撃破し道勢初の甲子園制覇を達成。津軽海峡越えを果たし深紅の大優勝旗を北海道にもたらした御方。

また翌年夏も優勝し夏二連覇を達成し、翌年は早稲田実・斎藤佑樹に阻まれたものの夏選手権3年連続決勝戦進出と一時代を築き上げた。

このまま駒苫の時代が来るかと思われたが、光あるところには必ず影があり。

不祥事と隣り合わせの生活、また学校側との確執もあり07夏を以て退任。全盛期は超新星の如く短かったが高校野球史に確かな爪痕を残した。


現在はなんやかんやあって駒澤大の監督に就任。それならはよ駒苫の監督に復帰しろ。


⑵ 須江 航


東北の雄・仙台育英の監督。2017年末、部員の飲酒・喫煙の不祥事問題の責任を取る形で退いた佐々木順一朗氏(現・学法石川監督)の後釜として就任。

系列の秀光中での全国優勝経験もあり、当校でも立て直しに向け手腕が期待されていたが22夏、数多のタレント、指導者を以てしても不可能だった悲願の白河越えを遂に達成。
優勝インタビューでの「青春って、すごく密なので」は同年の新語・流行語大賞にノミネートされ、一躍時の人となった。

優勝以前は負け試合での大炎上ぶりから迷将扱いをされる事もしばしばあったが、白河越え以降はそういった声も無くなり新時代のリーダーとして認められている。


⑶ 金城 孝夫


沖縄尚学を県勢初の選抜優勝に導き、琉球の地に紫紺の優勝旗をもたらした方。


当校現監督の比嘉公也に、長崎日大時代には広島・大瀬良大地を育て上げる等、名将である事に間違いはないのだが・・・⑷にて述べる方のせいか実績が若干霞んでいる。


また監督としても10夏以降、甲子園出場が無く存在感が薄れてしまっている。今回紹介するレジェンドの中では最空気。


⑷ 我喜屋 優


興南高監督。2010年に絶対的エース左腕・島袋洋奨を擁し史上6校目の春夏連覇を達成。琉球の地に初めて深紅の大優勝旗をもたらした。通称「ガッキー」


北海道の社会人野球チームを率いた経験から、⑴で取り上げた駒大苫小牧・香田元監督に雪国のチームが勝つためのノウハウを伝授したエピソードは有名。


春夏連覇を成し遂げ島人の夢を叶えたと言えば聞こえは良いのだが、それ以降は15夏を除いて甲子園での上位進出を果たせておらず、選抜に至っては優勝した10春以降出場が無い等、近年燻っているように感じる。


采配面でもエースと心中する場面多く、19夏県大会にて現オリの宮城を連投させた挙句、決勝戦で229球(0.987安樂)と酷使。

結局試合は敗戦。将来有望な投手を壊しかねない采配にネット上では「クソ老人」「老害」「辞めろ」「一発屋」等と非難轟々。


3年後の22夏選手権でも初戦、市船橋戦でエース生盛を引っ張った結果、代え時を失いピンチの場面で投球準備すらしていない安座間に継投。

ただでさえサヨナラの危機だというのに、それに留まらず市船橋・片野を申告敬遠で歩かせる満塁策を取り安座間にプレッシャーをかけてしまう。

試合は押し出し死球という誰も救われない決着に終わり、この采配にネット上では「可哀想」「トラウマになるわ」「人でなし」等と批判の嵐。


年齢も相まって島袋監督待望論も出始めており進退にも注目が集まっている。


⑸ 原 貢


原辰徳の親父、菅野智之の祖父。当時無名校だった三池工を選手権初優勝に導くと、東海大相模でも選手権優勝に導き、史上初めて「複数校で甲子園優勝を果たした監督」となった。

神奈川県の高校野球の勢力図を変えたと言われており、彼の存在は横浜・渡辺元監督らに大きな影響を及ぼした。

⑹ 木内 幸男


言わずと知れた「勝負師」であり、取手二・常総学院の2校で甲子園優勝を果たしている知将。


優れた状況判断力から来る神がかった采配は「木内マジック」と呼ばれ数々のドラマを引き起こした。


特に東北高・ダルビッシュを打ち崩した03夏決勝は、白河越えを阻止した流れもあり伝説として語り継がれている。


2020年に死去後も23夏選手権に教え子の小菅勲氏が率いる土浦日大が4強進出。木内イズムは脈々と受け継がれている。


⑺ 吉田 洸二


山梨学院監督。09春選抜にて元広島・今村を擁し清峰を長崎県勢初の甲子園優勝に導いた後、14年後の23春選抜で山梨学院を山梨県勢初の甲子園優勝に導いた。

清峰時代は清水央彦・現大崎監督とのタッグで高勝率を誇っていたものの、山梨学院時代は長らく早期敗退が続き「清水さんが有能だっただけ」と言われる等、散々な扱いを受けていたが23春選抜で優勝。汚名返上を果たした。

・・・かと思いきや翌年の24春選抜準々決勝。ここまで力投していた先発津島の爪が割れ出血してしまう。
普通ならここで降ろし櫻田に代えるべきところだが、何を考えているのか一切動かず。
結局この回こそ踏ん張ったものの、次の回も何故か続投させ、津島は案の定炎上。
交代した時には時すでに遅く、この地蔵ぶりにネット上は大荒れ。

2年連続8強進出という実績を残しながらモリシ顔負けの珍采配を披露する結果となってしまった。
とはいえ甲斐国を代表する名指導者である事は確か。今後の活躍に期待したい。


Chapter 5:価値観を変えた監督


ここでは「強さ」というよりも、高校野球そのものに何かしらの「変化」をもたらした方を特集していく。


⑴ 蔦 文也


池田高元監督。金属バット導入と共に、従来の守備力重視の高校野球像を壊し「やまびこ打線」と呼ばれるパワー野球で対戦相手を次々と力でねじ伏せた。

今で言う「筋トレ」「打撃破壊」を真っ先に取り込んだ人物。


この事から「攻めダルマ」の異名を持ち、元巨人・水野雄仁擁した82夏83春に夏春連覇を達成。

83夏にも早実の荒木大輔を粉砕する等、勢いは止まることを知らなかったが、決勝戦でKKコンビ擁するPL学園に0-7で完敗。天下は突如として終焉を迎えた。


⑵ 尾藤 公


和歌山県・箕島高を公立校として初めて春夏連覇に導いた名将。春夏計4度の優勝を誇り、高校野球ファンを鷲掴みにした「尾藤スマイル」で有名。

昭和を代表するスパルタ指導の鬼監督であったが、実は第二次尾藤政権時に当時タブー視されていた試合中の水分補給を導入している 。

またセンバツにおける21世紀枠導入を提言しており、THE昭和な監督でありながら、時代のパイオニアとしての側面を持つ珍しい人物。


⑶ 馬淵 史郎


名門・明徳義塾を長年率いる老将。試合後インタビューや解説での独特な言い回しから来る「馬淵節」が有名で、多くの高校野球ファンから愛されている。U18日本代表優勝監督。


皆さんご存知「松井秀喜5打席連続敬遠」事件を引き起こした張本人であり、当時「真っ向勝負」が美徳とされていた高校野球界に衝撃を与え、社会問題にまで発展させた。


⑷ 多賀 章仁


湖国の雄・近江を率い春夏計2回の準優勝(県勢最高成績)を誇る名将。馬淵監督より歴が長い事はあまり知られていない。


近年、投手層が厚いにも関わらず現西武・山田陽翔や西山恒誠といったエースピッチャーを酷使させる場面が目立ち、一部から「時代遅れ」等と批判される事が多々あるのだが、実は01夏選手権では「三本の矢」継投策で勝ち進んでおり、人物としてはむしろ革新的な部類に入る。


エース完投が当たり前の時代背景で複数投手による継投で勝ち進んだ近江は異端児と言え、「時代遅れ」どころか「時代を先取りした」監督なのである。


今回紹介するレジェンドの中で唯一甲子園優勝経験が無い。


⑸ クラノ


本名・倉野光生。愛知県私学4強の一角・愛工大名電を率い、04春選抜では準優勝に、05春選抜では優勝に導いた。
徹底したバント戦略を武器に勝ち進むその姿は従来の強者像を大きく変え、高校野球界に新たな風を吹かせ、世間に「名電=バント野球」のイメージを強く印象づけた。

常識を覆し、甲子園の大舞台で優勝。春の選抜では勝率.750と圧倒的な数値を誇り、高校野球の価値観を変えた事から彼は紛れもなくレジェンドなのだが、一方で春選抜における成功体験からバント野球を盲信。

相手チームにアウトの3分の1を献上(13夏初戦)する等の迷采配を披露しまくった結果、選手権8大会連続初戦敗退という屈辱を味わい、夏は勝率.266と低迷。

このままでは勝てないと気づいたのか、18夏選手権以降は強打を武器とした野球にスタイルチェンジした。
結果、本来の武器であるはずのバントが疎かになって得点力不足に陥るというオチに。

以上の迷走ぶりから、倉野光生もといクラノは今回紹介する監督の中でぶっちぎりの迷将扱いをされている。

「レジェンド」と「迷将」を両立しているのはこの人だけ。ステレオタイプなだけのガッキーなんて可愛い方である。


⑹ 上甲 正典


宇和島東・済美元監督。両校でセンバツ優勝を果たしている四国屈指の名将。

済美を創部2年目にして甲子園初優勝に導き、校歌にある「やればできるは魔法の合言葉」を全国に轟かせた。「上甲スマイル」でもお馴染み。


2013年の甲子園大会で、元楽天の安樂智大を1試合232球、また1大会772球と酷使した事により高校球児の登板過多が社会問題化。後の球数制限のきっかけを作った。


同地区の明徳義塾・馬淵監督とは親友。



⑺ 中谷 仁


知る人ぞ知る名門・智辯和歌山の監督。元楽天という異色の経歴を持ちながら、高嶋氏勇退後の18秋に監督就任。


「夏は二枚看板」という投手起用の常識を大きく覆す「複数投手制」を導入し、21夏選手権ではなんと5人の投手をやり繰りして優勝。


翌夏の優勝校である仙台育英も須江監督が5投手を駆使し勝ち進んでおり、「複数投手制」は界隈に多大な影響を及ぼした。


まさしく令和の高校野球、新時代を開拓した人物と言える。

ただ優勝後は22夏23春ともに期待を裏切る形で初戦敗退。23夏予選でも初戦敗退に終わるなど、ちぐはぐさが否めず。

投手育成に関しては定評があるものの、野手育成に関しては疑問の声があり、チームのスケールの大きさと得点力が一致しない事が多々ある。

また高嶋政権時とは異なり、智辯和歌山らしいドラマティックな試合展開が少ない事から、「良くも悪くもまとまったチーム」作りをする監督とも評される。




Chapter 6:さいごに


今回、「一時代を築いた」「偉業を達成した」「価値観を変えた」という3つの観点から、高校野球におけるレジェンド監督を紹介してきたが、一番注視すべきポイントは3つ目にある


・高校野球の価値観を変えた


これだと思っている。


どのような形であれ、後の「高校野球」に影響を及ぼしたというのは歴史的価値がある。

また既成概念に縛られない野球というのは、する事自体に覚悟がいるし、勝つ事も当然難しい。


その中で全国区で勝ち進み、存在感を示し新たな価値観をもたらしたというのはまさしく「伝説」と言えるのではなかろうか。


今回は以上!