ある正月の話 | BIZARRE EXPLORATION

岩崎弥太郎が、江戸出立前に 「吾れ志を得ずんば、再び帰りてこの山に登らじ」 と宣言したことでおなじみの妙見山に元旦に登ってみた。 室戸岬から桂浜へ移動中に何となく気になり立ち寄ることにしたのだ。

 

妙見信仰とは、インドの菩薩信仰と中国の北極星信仰が集合して生まれたものである。中国では北極星は北辰と呼ばれ、天帝として崇められている。ここに仏教思想が流入して、北極星は菩薩の名を冠されることとなり、妙見菩薩の名を得るに至った。妙見とは、優れた視力の意味であり、「善悪や真理を見通すもの」ということである。

 

坂本龍馬は北辰一刀流、免許皆伝で有名だが、実はこの北辰一刀流も妙見信仰を内に秘めている。江戸時代に熟成されていった武道は、実用的な技術の体系だけではなく、哲学思想も具備していることが多いのだ。

 

龍馬が相手に向ける切っ先をゆらゆらと揺らしていくのは北の夜空の動きを模している動きである。いずれにせよ土佐藩出身の人物二人が、同様の信仰に関連していたということは非常に興味深い。

 

北極星を中心とする夜空の動きはもちろん星そのものが動いているわけではなく、地球が自転することによっておこる見かけの動きである。この自転という動きが、日々、昼や夜を顕出せしめているし、時にコリオリの力をうみだし台風を曲げたりしているのだ。

 

北極星の信仰とは、この偉大なる地球の動きに思いをはせるということだ。ガイア理論を是とするならば、妙見信仰とは地球意識に思いをはせ、同調するということに他ならない。龍馬は日を回し雷雨を曲げる妙見菩薩の霊験をもって天下を回天せしめ、弥太郎はその余波を、(その時代の凡百の商人と比べて)相対的にうまく読み取り、多分に私的なものとはいえ、功業をなしたのだ。

 

妙見山頂上につき、その星神社にて龍馬に、弥太郎に思いをはせながら、祈りをささげる。 「妙見菩薩よ、我をしてこの無道の世に道をしめさせたまえ。吾れ志を得ずんば、再び帰りてこの山に登らじ。」

 

そして弥太郎の様にならないように、自らを戒めるためにもう一つ追加する。 「我万が一、私利私欲に溺れ、道をあやまることがあれば、その力を奪い、絶命させたまえ。」 と。

 

【妙見菩薩に思いをよせて】 

無道の世に道を求む(むどうのよにみちをもとむ)

 

 孤船の漆黒の闇をゆくが如し(こせんのしっこくのやみをゆくがごとし)

 

 共舟なくとも嘆くなかれ(ともぶねなくともなげくなかれ)

 

天上の北辰いまだ奪わるること能わず (てんじょうのほくしんいまだうばわるることあたわず) 

 

心中の菩薩いままさに妙見を得んとす(しんちゅうのぼさついままさにみょうけんをえんとす)

 

隆盛道(りゅうしょうどう)記す