「見る」という言葉には、2つの使い方があると思います。
「視る」と「観る」です。
私たちは小学校~中学校の理科の授業で人体解剖図や模型を通して、人体の臓器の場所や形・色などを学びます。
だから外科医師のように、直接臓器を見た=視たことがなくても、自分自身や他人の身体の臓器をイメージして見る=観ることができます。
バーバラ・ブレナン博士の唱えるHEF(Human Energy Field)=オーラやチャクラについても同様のことが言えます。彼女の著書「光の手」や「癒しの光」などの図解イラストは、私たちがHEF=オーラやチャクラを観る/イメージするのを大いに助けてくれました。改めて、博士の功績の大きさに感銘を受けるばかりです。
美輪明宏氏も霊を見る場合には、実際に物理的に視える能力(霊視能力)を持っているケースと、私たちが人の顔や過去の記憶を想起するように対象となる霊の人物像などを観ているというケースの2種類があるということをどこかで語っていました。そして、霊が見えると言っている人の多くは、後者の「観る」ことが出来るだけで、前者のように実際に霊体を「視る」ことができる人は少ないようです。
同様に、占い師や霊能力者が「未来」を「見る」あるいは「未来」が「見える」といった場合も、夢などで実際に映像として視ている場合を除き、99%が「観る」という方でしょう。つまりイマジネーション=想像、妄想ですから、何とでも言えてしまうということは、これまで○○予言というものが当たってこなかったという長い歴史を鑑みれば、当たるも八卦/当たらぬも八卦と評することができるのではないでしょうか?