「運命」という言葉を聞いてこの本を読んでいる方はどんな印象をお持ちでしょうか?
自分は運命を信じる/信じない。今まで自分に起こってきた過去のことはすべて必然だったと思う。はてまた運命なんて信じたくない。自分の力で人生を切り開いていくのだ。いろいろな考え方・感じ方の人がいることでしょう。
私は、運命という言葉で考えるのは、物事が起こるにはその背景にさまざまな要因/ファクターが存在しているということです。そして、そのファクターというものは、例えば私たちの存在し目の前にある空間には数え切れない無限といっても差し支えない数の原子・分子が存在していますが、その原子・分子のようなものと捉えています。空間中や水中などの気体や液体中の分子や原子は、ランダムに振動し、さまざまに運動していて、流動的に移動しています。ずっと同じところに石のように動かず変化せずに存在しているということはありません。
例えば、人がひとつの恋をするという例をとって考えてみましょう。まずその人が存在するという原因が必要です。これは当たり前のように思えるかもしれませんが、人が存在するには誰でも父親と母親が出会い肉体的に結ばれてその愛の結晶としてその人が生まれ、赤ん坊にお乳を与え離食を与え、おむつを替え、夜は寝かしつけ、大きくなっても1日3食と快適な家(シェルター)という物理的空間とお父さんやお母さんやそれに準ずる大人に見守られるという精神的な空間の中で健康的に暮らしていき、幼稚園や保育所そして小学校、中学校と社会的な環境の中で様々な刺激を受けながら知的にも精神的/情緒的にも肉体的にも成長していき、その人というモノが成り立っていきます。まずは恋をする人=主人公が存在するというだけでも、ただ単に「ポン」と人が宇宙の中からある程度の年齢を重ねた肉体が出現するということはありえないのです。
人が恋をするという例に戻ってそのファクターを考えましょう。まずその人が恋をする年齢的な時期が来ているという時間的なファクターがあります。そして、相手の人(運命の人?)と出会うには…なにかのキッカケ(仏教的には「人との縁」という言い方をしますが)が必要です。日常生活のふとしたきっかけで出会う(学校に向かうバスの中で出会う…など)か?旅先などイレギュラーな所で出会うか?出会うには、これまた空間的な制約…その人の行動範囲~パターンというものがあります。自分と相手の行動領域が重なり、その中で声をかける~話をする~あるいはどんな人なのか?下調べをしてから思いっきり告白する…など具体的な行動がなければ「出会う」というまでにはならないでしょう。
いまここに述べたのはあくまでも「外的」ファクターです。生きていれば無数の人達と目が合い、出会います。その中で“恋の火花(スパーク)”が内面で化学反応を起こして燃えなければ、「恋をする」という結果には行き着きません。しかし、この「内的」なファクターもどこまで「内的」と呼ぶことができるのでしょうか?人が「この人いいなぁ」と判断し、考えたということは、脳の神経回路が働いたということですし、恋をするときには脳の愛情ホルモン(オキシトシン)が分泌されると言われています。人間の内面も(肉体を持って生きている限りは)科学的=医学的には、脳の神経機能の現れであり、ノルアドレナリン・ドーパミン・セロトニンなどの神経伝達物質が作り出す精神状態ということができるので、どこまで「内的」「外的」と区別することができるでしょうか?
私たちには、人生を選択する(小さく言えば、日々の献立で何を食べるか?という選択など)という(見かけ上の)自由があります。「人生、ああすれば良かった/こうすれば良かった」という人がいますが、こういう考え方には過去のレッスンから学ぶという意味では意義のあることですが、注意深く過去を振り返るとその時の自身の知識・経験・精神状態からすれば他に選択肢はなかった、つまり人は常に最善の選択をしている、ということは言えるのではないでしょうか?そういった外的/内的ファクターという観点から見ても、すべてのファクターを処理速度およびメモリー容量が無限大の宇宙AIコンピューターで私たちの人生を解析すると、「運命」というコンセプトをより深く理解することができるのではないでしょうか?
キリスト教の言葉には、「一匹の雀とて父なる神のご意志によらずに地に落ちることはない」という言葉があります。宇宙の繊細で深い意志/流れ=神の考えということは言えるのではないでしょうか?
インドには、「カルマ」や「ダルマ」という考え方があります。
人生の流れや宇宙の仕組み~世界がどう動き回っているか?と深く認識し、悟り=光明を得た人のことを覚者やマスターと呼びます。彼らの視点に立つと、人は皆、定められた運命の道を一歩一歩、歩んでいる。でもそれは、どんなことが起きても思慮深い神のご意志であり、魂にとっては経験の糧となるレッスン(学び)である。