まだまだありますが、読者の方々の脳裡にはもうすでに何らかの絵が輪郭を整え始めて
いるのではないでしょうか。
さて、これからが本題。
いま挙げたリストの何らかを研究されている方たちにできなかったことが出来るようにな
るにはどうすればよいかということなのです。できなかったことというのは、「創造―クリ
エイション」という作業です。創造といっても全宇宙の創造という大事業という意味では
なく、少し小規模のものという意味でのお話しかできませんが。小規模な意味においての
創造ができないという例をいくつかリストアップしてみましょう。
l 細胞学を探究しても「破損した細胞」を健全な細胞として再生させられない。
l 微生物の生態の研究をしても「細菌感染」を無害化できない。
l 人体の機能の研究が発達しても壊れた免疫機能を完全には回復させられない。
l フォトンが人間の「感情」に反応して行動することが実験で分かってもフォトンで
構成されているいかなる物質(肉体を含む)も感情で変化させられない。
そして心は「空しく、さびしく、悲しく、苦しい」のに、どうしようもない。
飯島秀行さんという人がいます。ご存知の方も大勢いらっしゃるでしょうが、一応以下
のサイトを参照されると、それまでは不可能と思われていたことが可能であると分かると
思います。私もビックラコキました。彼のお話を何日か前に聞く機会にめぐまれ、今この
エッセイを書いているわけです。
http://www.youtube.com/watch?v=9n-EiGwcK9Q
常識と知識を粉砕されます。逆に言えば常識と知識が邪魔をして「創造的活動」ができ
ないのです。これを打破することが先決です。そのために必要な条件は、
明確に、明晰に、そして心底から理解し、納得し、そして委ねるというステップを踏む
ことなのだとひしひしと感じています。ぼんやりした意識状態では現象は起こせません。
それだけはよく認識しています。でも委ねた後に何が起きるかを私たちは選ぶことも、管
理することも実はできません。委ねてお任せするとはそういう意味です。ですから現象を
起こす原因は任された側にあるのです。そういう意味では私たちは創造主ではなく、副創
造主であるというほうがより適切な表現かもしれません。副創造主とは創造主抜きでは創
造できないという意味です。
みなさま、他者の言うことをうのみにしていると常識は粉砕できません。他者とは両親、
教師、書かれた本、報道された記事なので、これらをよくよく吟味してください。全部間
違いとは言っていません。でも、胸に手をあてて、「違和感」がある、「わくわくしない」
と感じたら変だなと教えてくれる「内なる叡智」があることを知ってください。また、体
に力が湧いてこない、というのも吟味事項のひとつです。体に力がないと、なかなか勇気
が湧いてきません。勇気がなければ委ねることは難しいです。委ねなしに創造の協力は得
られません。人間が個意識を持ったままで創造の一端を担うことはできないというのが宇
宙法則なのです。なぜならば、個意識には陥穽があるからです。「全部でひとつ」というこ
とが分かりたくないというサバイバル本能です。全部でひとつが分かったら個でなくなっ
てしまうという恐れから「全部で一つ、絶対、平等にして完全なる愛と情と叡智」という
創造主との間に隔てができてしまうのです。太母さんのことばに、「十方無限の極楽の真っ
ただ中で、小さな小さな地獄という囲いを必死で作って、わざわざ不幸になっているのが
人間」というものがあります。なるほどうまいこと言うなと思ったものです。
今までも何度も聞いてきたことだとは思いますが、繰り返します。
宇宙はたったひとつしかありません。ありとあるものすべてはひとつの一部です。これ
が心底明確に理解、納得できるかどうかが副創造主となれるかなれないかの境目なのです。
ただし、明解度と納得の度合い、そして各人にとって何故かは分からない理由で創造的活
動は可能となるようです。なにしろお任せなのでそうならなくとも文句が言えないのです。
私だって文句を言いたいのですが、いまだに腰痛持ちで花粉症なのですから。話が横道に
それました。理解の話に戻ります。
明確な理解とは「真(まこと)のコトバで生活することで培われるもの」なのです。意
識は実はコトバで構成されているものなのですが、このコトバが真実であることが私たち
が「神」とか「創造主」とか「宇宙意識」とか「天」とかいう名称で崇めてきた絶対の叡
智とつながる条件なのです。どういうコトバが真実であるのかということについてはまた
そのうちお話しして行こうと思っています。今日のお話ではまだことばが足りません。
2011.9.3
菊池 静流