ステイゴールド     四の字固め | 枚方コーリング

ステイゴールド     四の字固め

紙ジャケットの紙と印刷塗料の匂いに満ちた店内で佐藤は一心不乱に何枚ものレコードを出したり入れたりしていた。

小岩井歯科のある街の駅近隣の中古盤屋である。


佐藤は一枚のレコードを取り出して、それを見つめながらしばらく静止していた。

迷っていた。

中古で安く買おうと思っていたレコードが思いのほか高かったのだ。

佐藤が手にしているレコードはエリック・クラプトン。

犬のジャケットの「There’s in every crowd」。ラジオで「Little Rachel」という曲を聴いてとても気に入っったため、その曲が入っている音源が欲しかったのだ。


佐藤は両手にそのレコードを持ち、ジャケットを見つめたままの姿勢でレジカウンターに向かいそれを購入した。


自転車のかごにレコードを入れ、走り出した。

小岩井歯科を出てまだ30分ぐらしかたっていない。

佐藤は浅田の今の状況を想像してみた。きっと麻酔が効いてくるのを待つのと抜歯が先だから、エグイ治療はまだだろう。今麻酔が効いてきて緊張が高まっているぐらいだろうか。


1時間半ぐらいかかると浅田は言っていたが、佐藤は念のため早めに戻ろうと考えていた。もしかすると診察室から浅田の悲鳴が聞けるかもしれないと思ったからだ。自転車で少し遠回りして小岩井歯科に戻れば治療開始から45分後。一番治療がクライマックスへ高まっていく頃だ。


犬ジャケットのレコードをかごに乗せた佐藤の自転車は夕方の買い物で混み合う商店街に入った。肉屋の揚げ物のいい匂いがした。
途中、自動販売機でサイダーを買った。佐藤が買ったのはチェリオのサイダーである。

自動販売機はチェリオと佐藤は決めていた。


しかも佐藤が好んでよく買うサイダーの缶にはサイダーというロゴの下に動物のサイの絵がリアルに描かれていた。

佐藤はこのサイダーを愛していた。そして、このサイダーを買っては缶を捨てずに誰かに見せびらすことに楽しみをおぼえていた。


その缶を誰かに見せ


「これ何の缶ジュースか知ってる?」
と聞いておいてすぐに
「サイダー!」と嬉しそうに言い。


その後にサイの絵を指差して
「ほら!サイ!ほらサイやでほらっ!これがほんまのサイだー!や!な!ええやろ。」
と言って、相手の反応は無視して、やたらと嬉しそうに笑うのであった。

相手があきれていても関係なく、幸せそうに、その缶を見つめて笑うのであった。


そして持ち帰ったその缶を自宅のテレビの上に飾ろうとするため佐藤の母親は困っていた。


佐藤はサイダーを飲み干して例のごとくサイの缶をかごに入れて、自転車にまたがりペダルを踏んだ。商店街を抜け、新緑をたたえた並木道を走る。夕方の涼しい風が心地よかった。


小岩井歯科に着き、レコードとサイの缶を大事そうに抱えて佐藤はワクワクしながら歯科の中へ入っていった。大好きなレコードをゲットしたこと、サイの缶をゲットしたこと。そして浅田の黒前歯卒業記念。佐藤はとても上機嫌であった。



待ち合い室のソファーに腰掛けてレコードジャケットを見つめたり、サイの空き缶を見つめたり、時折診察室の扉に目をやったりして過ごした。残念なことに浅田の悲鳴は聞えてこない。歯を削る音もあまり聞えてこなかった。

20分ほどすると診察室の扉が開き、うつむいた浅田が現れた。額から下へ影ができている。思いっきりうつむいている。近づいてくる浅田の顔を見て佐藤は驚いた。人の顔色はこんなに変わるものかと佐藤は思った。

もともと浅田の肌は色黒なほうであったが、今の浅田の顔色は地蔵のようであった。灰色である。まったくもっての灰色であった。そして、表情は一切なかった。


佐藤は少し心配になりながら
「浅田よ。やっぱ痛いものなのか?」
と聞いてみた。


浅田はしばらく黙っていたが、しゃべり辛そうに口をひらくと



「もう… グリグリが… グリグリが何回も…」
と泣き出しそうな顔で答えた。


よく見ると浅田の上唇から上がやけに腫れていた。もともと巨大タラコくちびるでむくみ気味な顔のためわからなかったのだ。


「それでだ。歯はもう白くなったのか?」と佐藤は念のため聞いてみた。


「いやまだだ…。」


「どういうことだ?」


浅田の説明によると、先ず黒前歯の抜歯が行われ、これがとにかく痛かった。そして間髪入れず歯根の穴の処置が始まった。それが浅田の言うグリグリである。抜いたばかりの穴に何かを突っ込んでグリグリと掻き回すらしいのだ。このグリグリがとてつもなく痛いらしいのだ。


「じゃあ 今はまだ歯は入っていないんだな?」
と佐藤は聞きながらなんとかして前歯のない顔も見たいと思っていたが、お願いできる状況ではないと考えていた。


浅田は頷き、そしてうつむいた。
「もうグリグリはないみたいや。今は休憩。この後に仮の歯を入れる。」
そう言って浅田は黙った。