色々あってぼーっとしていたのか。

収納の上にある荷物を脚立にのって取ろうとして、足を踏み外してそのまま後ろ向きに後頭部から床に叩きつけるように落ちた。

 

すごい物音で落ちて起き上がれない。頭も体も痛い。

 

娘は知らん顔してYouTubeを見ている。

 

気を失ったらどうしようと、ヨタヨタと起き上がり、保冷剤を冷蔵庫から引っ張り出して、娘の横に寝転がる。冷やすのがいいのかわからんけど、何とかしないといけないと焦る。

 

娘が私を見た。「お母さん怪我したの」と伝えると、食べかけの溶けているアイスを捨ててとばかりに渡された。

 

「あー障害があるって、こういう時あかんな。」と切実に思う。

 

少しすると母が炊き込みご飯を持ってやってきて、よかったと心底思う。これで死んでもなんで死んだかわかるから。

 

話すのも辛くて「痛すぎて説明できないけど、頭打ったから、しばらく寝てる。様子がおかしかったら救急車よんで。」と言って横になる。

 

頭が痛いのか、体が痛いのかわからない。グァングアンと痛む。

 

寝ながら、天罰?私が?いや、なんの天罰。

 

もしかしたら、神様のお告げかとかスピリチュアルに考えてみる。

 

打ちどころが悪かったらと思うとゾッとする。畳じゃなかったら?机に激突していたら?

 

今も首、肩が痛いが娘はお構いなし。母と主人は私が先にどうにかなるかもとの恐怖をしばし味わった為か、とても気を使ってくれている。

 

 

42歳、全然足元が見えてないと言う事実。

 

娘は私が死んでも屍に要求をするのだろうか。それだけは避けたいという事実。

 

そして、人間の日常なんて「一瞬」で変わってしまうことがあるという事実。

 

色んな事実に気づいた。

 

バランスを崩した瞬間、「これはやばい」と思ったが為すすべなく、床に頭を打った。

 

きっと事故で亡くなる人もその一瞬「ヤバっ。死ぬかも」と思ったのだろうと思うとなんだか人間の一生って儚すぎる。

 

私のブログが更新されなくて、後遺障害で書けなくなった、死んでしまって葬儀が執り行われているとしても、読んでいる方は何も知らないまま終わっていくのだ。

 

それは少しさみしいなと思うけど、有名人でもない私の一生などそれくらいの価値なのだ。

 

そう思うと日頃気にしていることは対して意味のないことだとも開き直れる。

 

痛い首でブログを書きながら、本当に大切なことは娘と向き合うことでも、自分と向き合うことでもなく、生命体として健康な体を維持することなのかもしれない。と思い直している。

 

心が疲れると、体も動かず、思考も下がる、そして私は死にかけた。

 

死にたいと思っている、消えたいと思っているくせに、落ちた瞬間頭に過ぎったことは、

「この娘を残して今死ぬわけにはいかない」という後悔の念だった。

 

また忘れてしまうのかな。いや、忘れないようにしないといけない。

 

生きているってなんの為なんかな。

 

42歳ってまだまだだけど、間違いなく死に向かって走っている。

 

昔はいつ死んでもいいと本気で思っていたのは、死なないとわかっていたからかなと思う。

 

10代の10年と40代の10年では持つ意味も価値も違う。

 

そのことを改めて考えた。

 

あー首が痛い。週明け治らなければ病院に行こう。