休みになるとトートバックいっぱいの本を借りるのが日課になった。
以前は疲れすぎていて、家から出ることことすら億劫だった。
 
いや、図書館で親子連れの姿を見ると「どうして自分はそっち側(障害のない親子)になれなかったのかと頭をよぎるから避けていたのかもしれない。そして、勉強する若者を見て、「娘は成長してもこんなことはできない」とも思っていて、どこに行っても娘の障害と現実を比較してばかりいた。
 
私は週に5冊以上は本を読むのだけど、主人から「読むのが早い」と言われた。
子供の頃から読書は好きだったけど、そういえばいつからか速読できるよになっている。
人から言われて特技に気づくなんて、自分のことはやはりつくづくわかっていないものだと思う。
 
先週読んだ本に、「社会は生産性のないものを「愚」と呼ぶが、仏教ではそれは「聖」と呼ぶ逆さまの世界だ」と書いてあった。禅は果てしない競争社会から「降りる」ための革命的な技法だと一文があった。
 
私は禅には傾倒しているわけではないけど、とてもその一文に衝撃を受けた。
 
私が社会にでてから常に競争社会だったのかもしれない。合理性、生産性を求め、それを実践することで評価を得てきた。そこに、「娘」という合理性、生産性とは正反対の特性を持つ娘を授かった。どうしても受け入れられなかったのは、自分の中で正しいと思っていた価値観に娘の存在が当てはまらなかったからではないかと。
 
そして、食事でもなんでも私の生活は「欲」にまみれているということ。「もっと食べたい」、「もっと認められたい」、「もっとお金があれば」、と欲することばかりだ。
 
それでは疲れるはずだとまた本から学びを得た。
 
生産性や合理性ばかり求めていた私はとても忙しく、苛立っていた。それが自分を幸せに導いてくれると信じていたのはなぜなんだろうと、42歳になって改めて考え直している。
 
競争社会から完全に「降りる」ということはできなくても、自分の「欲」を手放し、今、自分がすでに受け取っているものをじっくり見つめてみたいと思う。
 
障害があるとかないとか、生産性があるとかないとか、そんなことではなく、娘も私もただ生かされている、同じ存在だと思う。
 
爽やかな風が吹き抜ける時、娘も私も同じように目を細めて気持ちよさを感じるように。
 
 
 
 
読んだ本です。