調子がよくなっていることの一つに娘の担任が代わったこともある。

 

今の先生は前の先生よりだいぶ若いのだが、障害児の指導を専門的に学んで来られた方で3年前くらいから娘の保育園で勤務されるようなったようだ。

 

以前の先生もとてもよくしてくださったのだが、「今日、パートありますか事件」のように、毎日パートの有無を聞かれたり、「お母さんがよく頑張ってくださっているから」と毎日称賛され、長期休みは「他のお母さんにも言っているから自宅でみてください」と拒否されたり、押したり引いたりされているようで、こちらの感情もそれに合わせて上下していたのかもしれないと今更気づいた。

 

娘のことで、「今日はこんなことで泣けてきました。」、「今日はこんなことを頑張ってくださりました」と事細かな報告が何となく、「娘には毎日何かで泣けて、何かを頑張らないといけないのか」という意識を私に与え続けていたのかもしれない。

 

今の先生は、「今日はこれで楽しみました!」と報告がある。余計な称賛はない。

「あぁ。楽しかったんだ。」とストンと落ちる。頑張らないでいい娘の姿を見たかったんだとこれまた今更気づく。

 

美容院でカットの合間にこの話をすると、美容師さんが

 

「よくしてくださるんですど」、「悪気はないんですけど」、「悪い人じゃないんだけど」と前置きするときって大概、「自分は不快とか納得してないんですよね。」という話になった。

 

私はその瞬間、「あー感情に蓋をしてるってことやね」と納得した。

 

社会でいきていくには理不尽な思いをすることもあるけど、その度にその感情に抗っていは精神が持たないので、自己防衛策として先ほどの「〜なんだけどいい人」を多用するようになった。相手も自分も傷つけない便利な言葉なのかもしれない。

 

いつしかそれは当然のように体に染み付いて、「自分が正直どう考えているか」なんてことにさえ気づかなくなっていた。

 

そう思うと、やはり前の担任の先生の時は毎日同じことを聞かれることは不快だったし、辛かった。

 

「いい人だから」とか「娘との相性がいいから」とか前置きは不要で、ただ、私にとってはとても疲れるやりとりをしていたということを今、素直に気づき、認めている。

 

逆に「〜なんだけど」と前置きなしで成立する人間関係は自分にとって居心地がいいのかもしれないとも思う。

 

自分が人間関係において、何か前置きをして納得させていることは「そんなんなくていいよ」と言ってあげたい。そして、「あんた。それ不快って思ってるんよ。」ともう一人の自分が教えてくれる。

 

相手を否定したいわけではない、でも自分の心もまた否定する必要はない。と私は思うのです。

 

 

 

 

ミネストローネの香りが漂う。自分で作ったけど楽しみだ。