信号待ちで集団下校のカラフルな傘に目を奪われる。

 

娘はこの中には入れないのだと、ふと悲しくなる。

 

同時に、「あぁ。娘の障害が辛いというより、多数派になれなかった。みんなと同じように育てることができなかった。」ということが辛いんだと思った。

 

娘を見ると愛おしさと辛さが混じるのはそういう感情から来ているんだと悟る。

 

一生懸命、喃語で話す娘の横で携帯を見ている主人を見て、「そっち(携帯)を見ている方が楽だよな」とも思い、可愛い喃語がスルーされるのを黙ってみているしかない私。

 

多数派で構成されている社会、ルール。

 

運動会や生活発表会も障害者側になってからは存在意義がよくわからない。

 

いつもと違う雰囲気で泣き出す子供、先生方の苦労を考えると、みんなと同じようにやることに成長が見られる場なんだろうけど、「本当に必要なことってなんだろう」と思う。

 

五体満足でも死を選ぶ人がいるなかで、障害児を育てながら必死に生きようとする私。

 

多数派で構成されている社会に順応するのは困難があるけど、結局ここで生きていくしかないとも思う。

 

色んな感情が入り混じって取り留めのない文章だけど。

 

多数派でしか生きてきたことがない私と多数派で構成されている社会で生きていかなければならない娘。

 

両方の世界に足を踏み入れることになったのだという覚悟は必要だと思った。

 

休みの朝も重いスタート(笑)

 

さぁ、動け動け。