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Hachikography!

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27日金曜日、退院の日。

 

 

夫さんと病院へ。

まずは母の訓練士さんと初めましてのご挨拶。

すらりと背が高くて、短髪ボーイッシュでちょっとハスキーボイスの女性の方でした。

まさに宝塚の男役さんにいそうな感じの。

宝塚が好きな母、嬉しかったんじゃないかな。

 

 

 

まずは待合のベンチで、母の前では話せない色々を。

 

これからの母の食事でもっとも望ましいのは、一番なめらかレベルの高い嚥下食。

でも、本人に食欲が少しでもあるうちに、食べたがるものを食べさせてあげてほしい。

ほんの少量でも美味しく食べられるほうが良い。

食べさせてみて、むせたらやめる、で大丈夫。

 

 

嚥下食のレベルについては、数日前にネットで数冊買っておいた嚥下食の本を持って行っていたのでそれを訓練士さんと一緒に見ながら、「このレベルまでは最低でもなめらかにしたほうがいい」という目安などを教えていただきました。

 

 

それから病室へ移動して、母の食事風景を見させてもらうことに。

 

そこにも細かなポイントがたくさんありました。

ベッドの角度を最大まで上げて、足の下にクッションを入れて足を高くして、顎が上を向かないようにして……などなど。メモメモ。

 

 

それから一口はティースプーンに半分くらい。

訓練士さんがスプーンで母の口へ運んでいました。

なのでこれからは私がそれをすることになるぞ、とメモメモ。

 

 

母は口に食べ物が入ったら鼻をつまんで、奥歯をぐっとかみしめて、ゆっくりゴクンと飲み込む。

これが、母がむせないように食べるときのルーティンなのだそうです。

家でも食事はこうやってやれば良いのか。メモメモ。

 

 

それから「食事中に三回むせたら食事をやめる」という約束があるのだそうです。

むせているということは誤嚥を起こしているということなので、誤嚥性肺炎を起こさないために、それ以上食べさせないということでした。

 

 

 

この日、フランスパンを買って持っていきましたが、フランスパンがダメだった時のために病院でも食パンを準備してくれていました。

 

まずはやわらかい食パンでトライして、2口。

飲み込めたので、フランスパンも1口トライして、飲み込むことができました。ほっ……。

 

 

 

食事を終えて、入院の手続きが済むまで母と少し話しました。

母は本当に見違えるほど元気になっていて、背もたれがなくても座っていられるし、目もぱっちり開いていて、おしゃべりも入院する前の状態まで戻っていました。

 

けれど、やはり喉に力が入りづらいのかな。

泣き出すと声をぐっとこらえることができないようで、うー、あーと声が漏れてしまいます。

 

 

母は、入院中に今の訓練士さんがすごく親身になってくれていたこと、訓練士さんが不在の時は妊娠中の看護師さんと、若い男性の理学療法士さんがすごく優しくしてくれたのだと一生懸命私に伝えながら泣いていました。

 

 

「人に迷惑をかけない」がいつも気持ちの真ん中にある母。

そもそも人に頼ることが苦手なのもあると思う。

だから誰かに優しくしてもらうと、ありがたくて泣けてきちゃうんだよね……。

私もその母の気質に似たところがちょっとあるので、すごく気持ちがわかるよ。

 

 

 

介護タクシーの方々が、背もたれの長い車いすを持ってきてくれました。

それに母を乗せて車まで移動します。

母の頭には、私が編んだ帽子がのっていました。

 

 

 

 

 

 

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介護タクシーで家に着いて、母をリビングの介護ベッドへ。

 

 

それから間もなく訪問看護の看護師さんがみえました。

 

この日から母が亡くなるまでの間に、輪番で家に来てくださった看護師さんは3名でした。

便宜上、看護師Aさん、看護師Bさん、看護師Cさんとして記します。

 

 

 

初回のこの日に来てくださったのは看護師Aさん。

髪の毛を一つくくりにしていて、小柄で、必要なことをずばっと無駄なく教えてくれるハスキーボイスの女性。

もしかしたら私と同世代かもしれない。

敬語ではなく親しみやすいタメ語で私と話し、いろいろやり方を教えてくれるけど「大丈夫。もし不安だったり難しかったら呼んでくれていいから」と言ってくれる本当に頼もしい看護師さん。

 

 

 

母と挨拶をして、バイタルを確認して、それから今後揃えておいたほうが良い物などアドバイスをくれました。

 

 

歯磨きは母が自分でできるときは自分でやる。

歯磨き粉は×。

液体のもの(GUMとかリステリンとか)を歯ブラシにつけてあげると良い。

 

 

それから、泡タイプのおしり用石鹸、Mサイズのゴム手袋(私はSサイズなので看護師さんが使えるようにMサイズも用意しておく)、調味料入れがあると良いということでした。

 

 

「調味料入れ」というのは、ハンバーガーショップなどに置いてある500mlペットボトルよりちょっと小さいくらいのサイズで、さきっちょが細長くて、ホットドッグとかにケチャップやマスタードをびょーーーっとかける……あれです。(説明下手)

 

 

用途はおしりの洗浄のため。食事用ではありません。

 

 

 

 

そんな話をしていたところに、往診の先生と看護師さん、包括センターの担当さん、ケアマネさん、それから介護グッズの業者さんがいらっしゃいました。

 

我が家、人でギュウギュウ(笑)

 

「これからこの皆でチームとしてあなたをサポートしますからね」と言ってもらえているようで、すごく心強い思いでした。母もきっとそうだったと思います。

 

 

 

 

 

___

 

この日から私は、可能な限り母の様子と食事内容・量、薬の記録を日記のようにつけ始めました。

 

一番の目的は薬を飲み忘れないように、だったけれど、母との日々を記録しておきたかったのもあり……。

 

 

 

退院までは「あの人と電話した」「あそこに行った」などの、記憶を引っ張り出すきっかけになるイベントがほぼ毎日あったのですが、退院してからはそういうことがなくなり……。

よく言えば穏やかな日々だったこともあって、細かい記憶が飛んでいるので、ここからはその日記から抜粋していこうと思います。

 

 

 

 

 

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1/27

 

看護師Aさんが帰ってから、母は1時間くらい横になったまま元気におしゃべりをしていた。

相撲の結果の話、入院中に優しくしてもらった話、宝塚の話など。

その後は夕食までラジオを聴いて横になっていた。

夕食は砂糖不使用のヨーグルト。すっぱくて美味しいらしい。

食後30分ほどテレビを見てから、歯磨き。

その後寝るまでベッドに座ってテレビを見た。

 

 

 

 

 

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1/28

 

7:30~9:00頃まで横になったまま元気におしゃべり。

入院中優しくしてもらった話や、これからのこと。

「何年も先になるだろうけど、もしもお母さんが伯母ちゃんのところへ行く時が来ても困らないようにいろいろ教えておいてほしい」と言って、お金のこと、実家の処理、もしもの時に知らせてほしい人など、いろんなことを教えてもらった。

懐かしい話もたくさんした。思い出話になると母はたくさん泣いていた。

 

 

なかなかお腹が空かないようで9:00頃に薬を飲むためにヨーグルトを食べる。

熱めのお湯でしぼったタオルで顔をふく。気持ちいいと言っていた。

歯磨きをして、顔に化粧水をぬってリップクリームをぬった。

これ↑をこれから毎回の食後のルーティーンにすると決めた。

 

 

10:00頃、訪問看護。看護師Aさん。

オムツ交換や陰部洗浄をしてくれた。

今後、私がすべき陰部洗浄の頻度ややり方を教わる。

 

 

訪問看護終了後、母と一緒に「本好きの下剋上(3期)」のアニメを見た。

「世界名作劇場」「ハリーポッター」が好きな母は絶対に好きだと思い、1期、2期はディスクに焼いて実家に持って行っていた。

母は「見始めたら全部見たくなって1日つぶれちゃうから」と言ってなかなか見てくれなかったけれど、不思議と年明けに実家に行った日(呂律が回らないことに気付いた日)に「この間全部見たよ」と1期、2期を見てくれていた。

今思うと本当に不思議。

 

そんなわけで3期を一緒に見た。

疲れるだろうと思って各話終わるごとに「ちょっと休憩しようか」と声をかけたけど、「大丈夫」と言って結局一気に全部見てしまった。

家族愛溢れるラストに二人で泣いた。とても幸せな時間だった。

 

 

おやつにコーヒーをかけたバニラアイスを食べた。美味しいと言っていた。

19:30に夕食。

カレーを作った。買ったばかりのハンドブレンダーで撹拌してさらに片栗粉でとろみをつけた。

食べてくれた。

 

夜はテレビで偶然母にとって懐かしい場所の特集をしていた。

母のベッドの周りに私と夫さんで座って、3人で母の昔話を聞きながら番組を見た。

 

とても穏やかで幸せな1日だった。

今日を過ごすためだけだったとしても、退院できて家に連れてこられて本当に良かったと思う。

 

 

 

 

 

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1/29

 

朝食にヨーグルトを食べて服薬。

10:00頃にバニラアイス&コーヒーを食べる。

母的には病院のバニラアイスよりも家で出すバニラアイスのほうが甘さが好みらしい。

ちょっとお高めのやつだからね……(笑)

ポータブルトイレで数回排尿あり。便は出ない。

ベッドに横向きに座って足の上げ下げや指の曲げ伸ばしの運動もできた。

夕食にかぼちゃのポタージュと梅しそ豆腐を作った。美味しいと言ってくれた。

 

夜、のどが渇いて「とろみがついていないものが飲みたい」と言うので、ポカリをティースプーンであげてみた。2口目で咽たのでそこでやめた。

 

 

 

 

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1/30

 

夜、眠れないらしい。

昨夜は消灯するまではうとうとしていたけれど、消灯すると目が覚めてしまったらしい。

冬用布団が少し暑いようで、薄手の毛布に替えた。

ポータブルトイレで数回排尿あり。便は出ない。

オムツ交換をした。

朝食は母の希望で今日もヨーグルト(すっぱいやつ)。

それとすった山芋にめんつゆを混ぜたものを作ってみたら、美味しいのと喉にするっと入るらしく完食できた。

ポカリを飲みたいが昨日咽てしまったのでとろみをつけてあげてみた。

とろみが苦手な母だけど、ポカリはとろみがついていても美味しいみたい。

 

30分くらい眠っていたけれど昼頃に起きたのでおしゃべりをした。

昔の仕事の話、私を生む前の話、母の子供の頃の話などなど。

祖父の顔に戦争で負った傷があってデパートに就職できなかった話と、私が生まれた時に祖母が初めて飛行機に乗って北海道に来てくれた時に親族が亡くなった話の時に泣いていた。

 

 

14:30往診。

今の食事などで500mlの水分がギリギリ摂れているくらい。

のどがすごく乾いたり血圧が下がったりしたら、お腹の点滴を考えてみようというお話だった。

便が出ていないのは、食べている量が少ないのでもう少し様子見。

座薬タイプの薬の処方箋が出た。

 

夕食にアスパラベーコンのポタージュを作った。食べてくれた。

今日も足の運動ができた。

母は暑いというが、夜中寒いといけないのでいつでもひっぱって体に掛けられるように冬用布団を足元に置いた。

 

 

 

 

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1/31

 

夜中、私が寝言を言っていたらしい。

(※母のベッドの横に空気で膨らむエアベッドを置いて私が寝ています)

 

朝食は今日もヨーグルト。あととろみポカリ。

ポータブルトイレで排尿あり。便はなし。

 

11:30ケアマネさんが来る。

来週から往診が金曜日、訪問看護が月水土になる。

入浴サービスの予約をとるべく動いてくれている。

ケアマネさんに体調を聞かれて「いつもより少しだるい」と言っていたのが気になった。

 

14:15訪問看護。

看護師Bさん。初めまして。

テキパキしたベテラン風の女性の方。

雰囲気的には「ナースのお仕事」の松下由樹さんみたいな。

私を巻き込んでダイナミックなことをやってくださる。

今日は着替えついでに母の体を拭こう!ということになり、私が蒸しタオルを5本作っている間に摘便などいろんなことをやってくれた。

できたタオルで母の体をごしごししてくれて(体が冷えないよう、丸出しにならないように前秋のトップスを母の前にかけてくれたり、すごく工夫してくれた)その後ワセリンクリームで保湿してくれた。

 

おやつにコーヒーかけバニラアイス。

いつもの1食分のあと、まだ食べたいようでもう1食分あげた。美味しいみたい。

 

ケアマネさんから電話で、訪問入浴を2日後にとってくれたそう。

夕食時、ここまでの疲れが出たのか母が少しぼーっとしている。食欲もあまりないみたい。

肉じゃがペーストを作った。少し食べてくれた。

耳が痒いようなので、ほんの少し入口だけ少し耳かきでこそげた。

 

 

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2/1

 

あまり元気がない。だるそうな感じ。

食欲がなく「食べたくない感じ」と言っていた。

ヨーグルトで薬を流し込んだ。

とろみポカリを一口。「前より味がないかも」と言っていた。

ポータブルトイレに座る。排尿あり。便なし。

座っていてもだるそうで目が開けづらそう。

明日の訪問入浴は大丈夫だろうか。

 

9:45訪問看護。

看護師Cさん。

はきはきだけれどゆっくり喋ってくれる物腰柔らかな女性の方。

小学生の時に通っていた学童保育の先生にいそうな感じ。

 

便のチェックをしてもらう。

コロコロしたのが腸に少しあるけれど詰まってはいない。

本人が「出たいけど出ない」「詰まって苦しい」と言わなければ、無理に座薬を使わなくても大丈夫。

陰部洗浄とオムツ交換をしてくれた。

背中と足の保湿とマッサージ。足がすごく冷たくなっている。

 

11:00頃、目は覚めているようだが横になっていたいみたい。

音だけ聴くというので、BGM替わりに宝塚をテレビでかける。

13:00頃におやつ。コーヒーかけアイスをあげてみる。

美味しいようでおかわりした。

夕食はとろろめんつゆとりんごを煮てブレンダーにかけてとろみをつけたものを作った。食べてくれたけれど、どちらも飲み込むときに少し残る感じがするかもと言っていた。

 

 

 

 

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2/2

 

起床時に「おはよう」と声をかけると「おはよう」と返ってくる。

はっきり発音できている。

体調は普通と言っていた。

食事全般はつらそう。食べたくない感じ。

ヨーグルトで薬を飲み込む。

ヨーグルトは口に入るけれど薬がスプーンに残る時があった。口の力が弱まっている?

「お湯が飲みたい」というのでとろみをつけてスプーンであげてみたが咽てしまった。

 

歯磨きセットを準備したけれど、口に力が入らないのかすごく嫌そう。

ホットタオルで顔を拭くだけにして少し様子を見てみる。

今まではマスクを「外していいよ」と言ってもつけていたが、今日はしたがらない。

少しして歯磨き。私がスポンジでやろうかと提案したが、自分で磨けた。

けれど歯磨き後のゆすぎで咽るようになった。

ポータブルトイレで排尿あり。便はなし。

 

14:30訪問入浴。ケアマネさんも同席してくれた。

すごい。家に即席(と言っては失礼なほどの)お風呂ができた。

ベッドの隣に、横たわったまま入れる浴槽がやってきて、家のお風呂場からお湯をとって、ほかほかの湯舟ができあがった。

母が選んだ生姜の香りの入浴剤を使ってくれた。

3人の介助者(男性1名女性2名)の方が来てくれて、テキパキ準備。

母をお姫様抱っこで抱えて湯舟に入れてくれて、頭や体を洗ってくれた。

そのあとも母は一度も起き上がる必要なく、着替えも髪のドライヤーもやってくれた。

母はとても気持ちよさそうにしていた。

「お母さんをお風呂に入れてあげたかったんだよね」と言ったらちょっと泣いていた。

 

夕食時。かなり力がない感じに見える。

コーヒーかけアイスを食べた。

「まだ食べれるけど、あとがつらいかも」と言っておかわりはしなかった。

声がガラガラしている。多分咽そうになるのだと思う。

飲み込むのにも前より時間がかかるようになった。食事が本当につらそう。

 

寝る前にポータブルトイレに座るが尿が出ない。

これまでは座れば出ていたのに、初めて出なかった。

朦朧としてきた感じがする。

問いかけに頷きはするが、元気がない。

ベッドに横になって「おやすみ」というと頷いていた。

 

 

 

 

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2/3

 

いつもと違って目がぱっちり開いていない。

けれど「おはよう」という言葉ははっきり聞こえる。

夜中は寒かったらしい。布団の掛け方か?お風呂に入ったから?

会話はできるが明らかに元気はなく、目を閉じている時間が長い。

「今日でお母さんが退院した日から1週間経ったよ」といったら少し驚いていた。

 

朝食は食べたくないという。

しばらくすると寝息が聞こえて来た。

薬を服薬ゼリーで流し込んだが、一度口に残ってしまった。

 

座らせると姿勢が右に傾くようになった。トイレが危ないかもしれない。

食事の時に足の下にクッションを入れるときもあまり足が上がらない。

特に右足はほぼ力が入らないように思う。

歯を磨こうと話すとかなりつらそうな表情をしたので、私がスポンジで歯を磨いた。

手足にワセリンをつけてマッサージをした。

温かいタオルで顔を拭いて化粧水とリップクリームをつけるいつものルーティーンを自力でできないようだったので私がやったが、その間も目を閉じたまま。

「○○するね」という声掛けには頷く。

 

12:30、記憶が錯綜しているのか「ねえちゃんは、あそびにいったんでしょ?」と聞いてきた。

小さい頃に長らく入院していたことがある母。

その時に気持ちが戻ってしまったのだろうか。

 

14:50、往診。

明日から点滴をやることになった。

とりあえず1日おき。やったほうが楽なら続けて、嫌ならことわることもできる。

食事がつらそうで薬が飲み込めないことがあると相談。

飲まなくてはいけない薬(ステロイド)も点滴に入れてくれることになった。

別室で先生と話す。

母の命は、点滴をしてもあと2週間はもたないかもしれない。

食事は本人が嫌がるなら無理に摂らせなくていい。

トイレも、座っているときに体が傾くなら無理にさせない。

 

 

15:15、母が「ジュースを飲みたい」「ぶどう一粒食べたい」と言う。

ちょうど冷蔵庫にパピコのブドウ味があったので、ほんの少しずつあげてみる。

1口目で咽たのでやめようかと思ったが、欲しそうにしていたのでもう一口あげた。

「美味しい」「皮がないんだね」と言っていた。ぶどうだと思ったのかも。

 

録画した「セレブレーション100」(宝塚のOGの方々のステージ)をかけておいたら、しっかり見ていた。

オムツ交換と陰部洗浄をした。

これまでは自力でお尻を上げてくれていたのでパンツ式だったけれど、お尻があまり上がらなくなったのでテープ式にした。

19:00頃に何か食べるか聞いたけれど首を横に振っていた。

夕食は、やめておこうと思う。

 

 

 

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2/4

 

深夜2:30、「トイレ」と声が聞こえて目が覚めた。

「トイレに座りたい?」と聞くと「おしっこが出る」と言うので慌てて電気をつけて準備するも「出ちゃいそう」と言うので「オムツしているからそのままして大丈夫だよ」と言う。

「できるか分からないけどしてみる」と言ってオムツに尿を出せた。

オムツを交換したけれど、なんだかうまくつけられなくて、何度もゴロゴロさせてしまった。

ゴロゴロする力がかなり弱くなっていると感じた。

お尻を上げることも難しいようだし、足にほとんど力が入っていない。

「おやすみ」と言うと、ほとんど声が出ていないが口の形は「おやすみ」と言っていた。

 

朝、夫が「いってきます」を母に言うと、母は笑おうとする。

昨日よりも笑顔を作る力が弱い。

 

9:10訪問看護。看護師Bさん。

オムツの交換について今後のアドバイスをもらった。

小さめの尿取りパッドをじゃばらにして股に挟む。

その上に夜用パッドをしてさらにテープオムツ。

じゃばらのパッドを交換すればゴロゴロさせなくて済む。

点滴を刺してもらった。

金属の張りは最初に刺す時だけで、あとは抜いてしまうらしい。

私が抜くのはソフトなやつだけ。

点滴の外し方や、母が痛がった時の対処法などいろいろ教わった。

 

今後母が何か飲みたがったりした場合は、スプーンの裏につけて下に味をつけてあげるのが良いかもと言われた。

唾液を飲み込めているので大丈夫ではないかと。

口腔ケアは1日3回してあげたほうが良い。

口腔用ウェットティッシュで拭いたり、スポンジに口腔ジェルをつけてぬってあげるなど。

 

 

 

 

 

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2/5

 

喉が渇いていそう。昨日はずっと口呼吸をしていた。

「喉乾いてない?」と聞くと「甘いのはね……(嫌)」と言うので「口の掃除しよっか」と言ったら頷いた。

ジェルを指で歯に塗ってあげた。

口用のウェットティッシュでふき取り最後に舌を拭いた。

舌の上部分がこげ茶?黒色?になっている。乾いているような感じがする。

「すっきりした?」と聞いたら頷いていた。

喉が痛いみたい。マスクをした。

 

10:00頃、「甘くないのが飲みたい」と言うのでコーヒーをスプーンでほんの少し舌にのせた。

「ガブガブ飲みたい」と言っていた。飲ませてあげたい。

 

2日前に母が「ハイビスカスが食べたい」言い出した。

食べたことないのでしばらく母から話を聞きだしてみたら「北海道」というので「ハスカップ」のことだとわかった。(母はハスカップが大好物)

夫に相談してハスカップジャムを取り寄せてもらっていた。それが届いた。

母にスプーンで少し舌にのせて与えてみたら、すごく嬉しそうに「美味しい」と言ってくれた。

よかった。

 

「トイレに座ってみたい」と母が言ったけれど、足に力が入らないので座らせてあげられない。

「オムツにしてみて」と言ったけれど、できないようだった。

「頭が痒い」と言う。

ノンアルコールのウェットティッシュで頭皮を少しマッサージした。

頭を洗ってあげたい。

 

福島から伯父と義伯母と従兄弟が来てくれた。

伯父たちが話しかけている間、母はずっと笑顔だった。

皆が帰る時に従兄弟が母に話しかけながら泣いてしまったのを、母が「大丈夫」と声をかけて心配させないようにしていた。

帰った後「みんなと会えてよかったね」と言ったら頷いていた。

伯父が持ってきてくれたお土産のマグネットを嬉しそうに撫でていた。

 

 

 

その後、お義母さんが来てくれた。

母の手を取ってわーーっと泣いていた。

夫から「余命のことは絶対に言わないで」と言われていたせいか「ママ(=母)、ママ、本当に会えて良かったー!」と言いながらたくさん声をかけてくれていた。

母はそれを見てにこにこ笑っていた。

数日前にお義母さんが耳の調子が悪いらしいと私が話したことを覚えていたみたいで「耳はだいじょうぶ?」と母がお義母さんに話しかけていた。

 

 

 

17:00頃、氷水を少し舌にのせてあげていたら「みかんの甘くないところと、りんごのすっぱいところ」と言う。食べたいものかな?

その後急に私の腕を左手でポンとして「疲れたでしょう?」と言われた。

「疲れてないよ」と言ったら少し笑っていた。

涙が出てきてしまったので、母の頭を撫でてごまかしていたら、母が眠ってしまった。

 

19:00頃、「水が飲みたい」というので氷水をなめさせた。

美味しいと言っていた。

「体が重い感じ」「疲れた」と言うので、手と肩と足をワセリンクリームでマッサージした。

「お腹がすいた」と言っていた。食べさせてあげたい。

薄手の毛布でも暑そうにするようになった。

私の夏用の布団に交換した。

 

23:30頃、ハァハァした呼吸と「アーーー」という声が5分おきくらいに繰り返され、何かうわ言のようなことを言うようになった。

話しかけると「大丈夫」と言ったり「お水が飲みたい」と言ったりする。

なめさせてあげると「美味しい」と言う。

 

 

 

 

 

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2/6

 

深夜2:30頃。

発声、呼ぶような声もあり、明かりをつけて顔に触れてみると頬だけ氷のように冷たくなっていた。

夫と相談して訪問看護へ電話。

状況を伝え、尿が丸2日出ていないことを伝えると、深夜にもかかわらず来てくれることになった。

 

来てくれたのはこの日の当番の看護師Dさん。初めましての方。

偶然にも母と伯母と私で昔住んでいた家の近くから来てくれた方だった。

脱水が疑われるため、点滴をしてくれた。

 

母の様子を見ていると、電気を消すと呼吸が荒くなる感じがする。

伯母が亡くなって以降、母は心療内科でもらった睡眠薬を時々飲むようになっていた。

もしかしたら暗い中で眠れないことが怖いのかも……と思い、電気をつけたままにしておくことにした。

声をあげたり呼吸が荒くなることもあるけれど、頻度が減った気がする。

 

 

 

10:30、訪問看護。看護師Bさん。

尿が溜まりすぎると毒素が血液に入り、体を回って朦朧とすることがある。

水分が多すぎると肺のあたりに水が溜まり、本人が苦しくなるため尿が出ないとこれ以上点滴ができない。

昼の往診で尿の管を入れることを提案してみる。

現状、呼吸は荒いけど本人はあまり苦しくないと思う。

 

オムツを母の頭の下に敷いて、頭を洗ってくれた。

「頭、気持ちいい」と母も気持ちよさそうにしていた。

痒そうにしていたから本当によかった。

 

 

「甘くないの」(=母はハスカップジャムのつもりで言っている)と言うので、何度かハスカップジャムをなめさせた。

 

午後の往診で尿の管を入れてもらった。

とても痛そうで、つらかった。

管を入れたら袋に尿が少し出て来たので安心した。

今日から1日どのくらい尿が出たのか記録することになった。

 

 

口呼吸がつらそうなので、ベッドの近くに2つ目の加湿器を出した。

 

 

 

 

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2/7

 

訪問看護。看護師Aさん。

尿の管のミルキングを教わった。

尿の管が入った状態での陰部洗浄も教わった。

ただ、ちょっと難しさがあるためヘルパーさんを頼ってもいいんじゃないかとアドバイスをもらった。

 

帰りがけ、母に聞こえないところでAさんと話した。

おそらく、本当にもういつ呼吸が止まってもおかしくないと思う。

できることとして残っているのは「五感を刺激してあげること」。

好きなアロマを焚いてあげたり、アロマのお湯で足を拭いてあげたり、ミカンを部屋で食べたりとかも良い。

唇を湿らせてあげるのもいい。

 

 

 

 

 

 

___

 

私が日記として記録していたのはここまででした。

 

この後はノートに向かう余裕がなくなってしまいました。

 

 

その先はカレンダーにちょこっと書いていた記録からひっぱりだせた記憶を記します。

 

 

 

 

 

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2/8に2度目の訪問入浴。

 

前回来てくださった3人組の方々が来てくださいましたが、母の状態を見て入浴はさせられないと判断されました。

けれどせめてできることをと、持ってきた浴槽にお湯を溜めてホットタオルを作って、母を体を拭いて着替えをさせてくれました。

 

 

 

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2/9に訪問看護。看護師Aさんが来てくれました。

母の様子を見て、バイタルチェック。

母は無呼吸の症状が出るようになっていたので相談。

それからお尻に少し床擦れの一歩手前のようなものができていたので、その処置。

 

それから私のことを気遣ってくれました。

6日の深夜からほとんど寝ていない状態だったので、多分ひどい顔をしていたのだと思います。

「昼間は穏やかに寝ていることが多いけれど、夜中に声を上げたり水を欲したりするから……」と話したら「多分、(嫌な意味じゃなくて)甘えてるんだよ」と。

 

「できることはしてあげたらいいけど、娘さんが倒れちゃだめだよ。ちゃんと寝ないとだめ。もし寝ている間にお母さんの呼吸が止まったとしても、それはお母さんがその時を選んだってことだから、あなたはちゃんと寝ないとだめ」と言葉をかけてくれました。

 

そして母の状態についても教えてくれました。

「今は脈がとれないくらいまで弱くなってる。でも心拍数がすごい。心臓を一生懸命動かしてる。生きよう生きようとしてる。もしかしたら今日が峠かもしれない。いつでも電話してきて大丈夫だからね」

 

 

 

床擦れのことをケアマネさんに相談して、電動の床擦れ防止マットを入れてもらうことになり、この日に設置してもらいました。

 

 

 

母は「おみず」と「あまくない(=ハスカップ)」以外の言葉を発することがなくなってきていました。

でも夕方ごろに急に母が大きな声出しました。

「せんせいありがとー」「○○(私の本名)もありがとー」と叫んで少しだけ微笑んでくれました。

 

そのあとは、もう「おみず」しか言えなくなってしまったので、これが私が母に名前を呼んでもらった最後でした。

 

 

 

夜。

私が20:00~0:00まで寝て、0:00から夫さんと交代することになりました。

 

 

 

 

___

2/10

 

深夜2:50頃。

母の無呼吸の頻度が上がり、呼吸がとまる時間が長くなってきたこと、なんだか呼吸にガラガラと痰がらみのような音がするようになったこと、それを母がとてもつらそうにすることが気になり、訪問看護へ電話。

この日の当番は看護師Bさんでした。

すぐに行きますと言って、痰の吸引の機械を持って来てくれました。

 

様子を見て、呼吸をしやすい体勢を取らせてくれたところで少し呼吸が穏やかになったので、吸引はせずに様子を見ることになりました。

 

 

帰りがけ、Bさんの見立てを伺いました。

おそらく日付が変わる頃に呼吸が止まるんじゃないかと思う、とのことでした。

Bさんも私をとても気遣ってくれました。

Aさんと同じように「寝てください。寝てる間に逝ってしまったとしても、それはお母様があなたにその姿を見せたくないと望んだということだからね。くれぐれもあなたが倒れないように」と。

 

 

 

それから午前中に往診の先生が来てくれました。

バイタルを見て、先生も「おそらくそろそろだろう」と。

分かっていたけれど、もうずっと覚悟してきたことだけど、急に涙が出てきてしまって、先生とお会いできたのはそれが最後だったのに、ちゃんとお見送りできませんでした。

夫さんが先生を見送ってくれて、私はしばらく泣きました。

 

 

夕方ごろ、訪問看護のステーションから電話がありました。

母の退院前日の日に「枯れていくことは自然なこと」の話をしてくださった方でした。

この日、東京では積雪予報が出ていたのでそのお話でした。

訪問看護の看護師さんたちは自転車で来てくださるので、雪が降ったり路面が凍結している可能性がある場合の深夜は来られない、ということでした。

 

深夜に呼吸が止まった場合は、6時を過ぎるのを待ってから一報をください。電車で向かいます、とのこと。

看護師AさんやBさんから私の様子も聞いていたのか、私を気遣う言葉をたくさんかけてくださいました。

 

 

 

 

夜、昨日と同じように私は20:00~0:00まで寝ることに。

その間は夫さんが起きていて母の様子を見てくれています。

 

 

 

 

 

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2/11

 

深夜1:00頃。

0:00に起こしてもらうはずが、私が起きるギリギリまで夫さんが寝かせてくれていたようでした。

夫さんと交代。

母は変わらずハァハァしている。

そして心臓のあたりに置いた手が、心臓の鼓動に合わせてドクンドクン動いている。

母が必死に心臓を動かしている。

 

 

私が眠ってしまわないようにというのと、母が好きだった霧矢さんの作品を流してあげたいなと思って、録画した宝塚の作品をテレビでかけることにしました。

 

「ジプシー男爵」。

霧矢さんが汗だくになりながら歌にダンスに活躍する作品で、見るたびに「きりやんが頑張ってる……!」と母が特に気に入っていた作品だったと思います。

 

 

それを流しながら、なんとなく母の手足を触ったらとても冷たくなっていたので、温かいタオルを作って拭いてあげることにしました。

タオルで拭いて、ワセリンクリームでマッサージをして、顔の保湿をして。

 

 

それが終わり、母の隣で私もジプシー男爵を見ようかなと思っていたら、母の呼吸がだんだんとゆっくりに、穏やかになっていることに気付きました。

この2日間くらいでここまで呼吸のペースが落ちるのは初めてでした。

 

 

最期なのかもしれないと思って、母に話しかけました。

 

何を話したのかはもうあまり思い出せないけれど、「お母さんの子で幸せだった」とか「生まれ変わってもお母さんの子にならせてね」とかそういうことを。

すごく泣いてしまったけど、伝えたいことは全部伝えないと思ってたくさん話しました。

 

 

そしたら、ずっと閉じたままだった母の目がぼうっと開いて、焦点は合っていないけれど私のほうをじっと見ているような感じでした。

 

これは、このまま逝ってしまうのかもしれない。

このまま逝ってしまったら、私が母の瞼を閉じてあげることになるのかな。

 

と、思いながらしばらくの間、静かに母と見つめ合うような感じになり。

 

 

 

それから、母が、なんとなく「決めた」ような感じがしました。

自分でしっかり意思を持って両方の瞼を閉じて、それから3回ゆっくり呼吸をして、そして動かなくなりました。

 

 

深夜、3時を少し過ぎた頃だったと思います。

母の体をぎゅっとして泣きました。

そしたら、応えるみたいに一度だけ母が呼吸をして、それが最期でした。

 

 

 

 

「夫さんを呼んでくるね」と母に声をかけて顔を上げたら、いつの間にかジプシー男爵が終わっていてエンドロールが流れていました。

母はちゃんと最後まで大好きな霧矢さんの歌を聴いてから逝ったのだと思いました。

 

 

 

 

眠っていた夫さんに起きてもらって、二人で泣いて、それから母の体を仰向けにして(呼吸がしやすい横向きの体勢にしていたので)、顔に白のハンカチをかけて、それからリビングで夫さんと二人で母の最期のことやこれまでのことを朝の6時を回るまで話しました。

 

 

6時になったので訪問看護へ電話をし、母の呼吸が止まったことを伝えました。

 

 

20分後くらいに看護師Cさんが来てくれました。

それから母のエンゼルケアをしてくれました。

夫さんも私も一緒にさせてくれたので、母の体を拭いたり、着替えを手伝ったりなどしました。

 

 

Cさんとも母の最期の話をしました。

私と夫さんに「本当によく頑張りましたね」とたくさん言葉をかけてくれました。

本当に手厚く、母の最後のケアをしてくださいました。

 

 

 

 

それから少し経って、母の死亡を確認するために医師の方がお見えになりました。

確認して、死亡診断書を作成するために病院へ戻られ、後ほど診断書を病院まで夫さんが取りに行きました。

 

 

私は伯父に連絡をして、それから伯母の葬儀を担当してくださった葬儀社さんの担当の方に電話をしました。

担当の方がドライアイスを持って家へ来てくれました。

 

 

ドライアイスを母の体の周りに置いて、それから葬儀の打ち合わせをして、次の日には葬儀会場の冷蔵庫へ母を運ぶことになりました。

 

 

夫さんが診断書を受け取った帰りにスーパーでパンを買ってきてくれたので、それを食べて、それから二人で昼から泥のように眠りました。

起きたら外が真っ暗でした。

 

 

 

母の顔に掛けたガーゼのハンカチを取って、改めて母の顔を見ました。

不思議だなぁと今でも思うのですが、本当に穏やかな表情をしていました。

最後の数日は苦しそうに見えたのでそれが心苦しかったのですが、とてもほっとした表情に見えて心救われるような思いでした。

 

 

 

___

次の日に、葬儀会場へ母を運びました。

葬儀会場はお義父さんや伯母が眠っているお墓があるところで、母も伯母の墓参りによく来ていたところです。

私も母も夫も、ここ数年職員さんたちにとても親しくしてもらってきました。

 

到着すると、いつも話しかけてくださる職員さんが出てきてくれて、一緒に泣いてくれました。

それから葬儀の打ち合わせをして、方々へ連絡をして、数日が過ぎて、葬儀。

 

 

 

 

 

私が喪主。

 

 

ずっと思ってきたことがあります。

それは「母より先に死んではならない」ということ。

 

 

母はとても小さく小さく生まれてきました。

祖母の片手に乗るくらいの本当に小さな赤ちゃんだったそうです。

 

 

そして幼少期に大病をたくさんしました。

長期間入院することも何度もあったと聞いています。

 

 

そして大人になってからも婦人科系の病気をいくつもしました。

子供は望めないと言われていたのだそうです。

でも病気を根気よく治して、長い間入院をして、お腹を切って私を生んでくれた。

 

 

母のお腹には傷がたくさんあって、私を生んだ後はあと一度しかお腹を切れない体になりました。

そうなると分かっていながら、私を生んでくれました。

 

 

 

幼いころから、私は祖母によく言われていました。

「お前のお母さんは、きっと長生きできないと思ってた。でも大人になれてお前を産めた。ここまで生きられると思っていなかった」

 

小さい頃は少しショックでした。

 

そして母の年齢から、いつまで一緒にいられるのか数えたりもしました。

母は高齢出産で私を産んだので、当時のまわりのお友達のお母さんと比べると年齢が少し上でした。

 

「私はお友達よりもお母さんといられる時間が短いのかもしれない」と思って、一人で泣いたりもしました。

 

 

あの頃から、いつか母がいなくなることの恐怖にずっと怯えてきました。

 

 

 

 

中学生の時に、死んでしまいたいくらいつらい期間がありました。

死んでしまいたいけど死ぬ勇気もない、でも生きているのがつらくて心が壊れそうな時に、そうならずに踏みとどまれたのは「私がここで壊れてしまったら、母が命がけで私を産んで育ててきてくれたことは一体何になるのだろう」という気持ちでした。

 

 

小さかった母が必死に生きて、産んで育ててくれた命である私が、生きているのがつらいと思っていると分かったら、ましてや私が死んでしまったら、母はすごく傷付くだろう。

 

母を傷付けたくないな、という、その気持ちがあの頃の私のメンタルを支えて続けてくれました。

 

 

それから先は、「母を守りたい」という気持ちが、ずっと私の生きる指針でした。

 

 

 

 

伯母が亡くなってから寂しさで消えてしまいそうな母を見ていて、その思いがとても強くなっていました。

 

絶対に、私は母を看取るまでは死んではいけない、と。

私が母のお葬式を出してあげるのだ、と。

 

 

 

 

 

 

そして、私は喪主となって母を見送りました。

 

不思議な気持ちでした。

 

母がいなくなってしまった。

ずっと恐れていたことが起こってしまった。

 

なのに、安堵している自分もいる。

私は先に死なずに、母をちゃんと見送ることができた。

先に死んで母を悲しませることをしなくて済んだ。

 

 

 

でも、こうなるのはまだまだ先のことだと思っていました。

あと10年は一緒にいられるものだと勝手に思っていました。

そうあってほしいと願っていました。

 

 

 

 

病が分かってから、早くて1週間、長くて1カ月と言われた母の余命。

母は、長いほうの1カ月を強く生ききってくれました。

 

最期に、私の顔をじっと見て、それから自分でしっかりと瞼を閉じた母の姿を、私は一生忘れないと思います。

 

 

 

 

 

 

そしてこれは蛇足というか、私が都合よく信じたいだけなのかもしれませんが。

 

 

さまざまな手続きのさなかに、母の死亡診断書と自分の戸籍謄本を並べて見ていて気付いたことがありました。

 

 

(年齢とかバレちゃうけどいいや……)

 

 

母が亡くなった日=令和5年2月11日

私が生まれた日 =平成2年5月11日

 

 

順番は違うけど、数字が一緒なのよね。

 

 

 

そして伯母の誕生日の前日に祖父(伯母と母の父)が亡くなり、

2年前の私の誕生日の前日に伯母は亡くなった。

 

 

 

伯母が亡くなったのは2年前で、母と伯母は2歳差の姉妹なので墓石やお位牌の後ろに刻まれている没年齢は同じ。

 

 

 

 

 

 

 

ご僧侶から「人は生まれた時に亡くなる時も決まっている」というお話をいただきました。

 

本当のところはわかりません。

でも、あまりにも。

あまりにもで。

 

 

 

 

それと関連させてはいけないのだと思いつつ、書きますが。

 

 

私は今でも「母が病にかかったのは自分のせいだ」と思っています。

 

伯母が亡くなった後、母がとてもつらい思いをしていたのに、私は母のすごく近くに住んでいて時間もたくさんあったはずなのに、自分の都合や怠惰を優先してしまった。

 

 

毎日LINEのやり取りはしていたし、週に一度は電話で会話をしていた。

月に一度は母に会いに行っていた。

でもそういうことじゃない。

 

 

母を外へ連れ出したり、母のそばでたくさん一緒に過ごしてあげるべきだったのに、私はそれをしなかった。

「母を守りたい」という気持ちに生かされてきたくせに、本当に母がつらい思いをしているときに私はちっとも力になってあげなかった。

 

 

母がかかった病について調べていた時に「一番大きな原因の一つはストレス」という記述を見つけて。

私がもっと母を支えていたら、母はこの病にかからなかったんじゃないかと思ったのです。

 

 

この気持ちは今でも消えません。

多分一生背負っていく咎のような気がしています。

 

 

 

 

 

けれど、それはそれとして。

「人は生まれた時に亡くなる時も決まっている」という言葉に、少し救いを見出すことを許していただいた気持ちがあるのです。

 

私がもっと母を大切にしていたら母はこの病にかからなかったのかもしれない。

そうだとしても、仮に私がどんなにあがいていても、母はあの日に亡くなることが決まっていたのかもしれない。

 

 

 

どちらとも思えるように。

自分を責める日もあれば責めない日もちゃんと存在するように。

「人は生まれた時に亡くなる時も決まっている」という言葉をくださったのかな。

 

 

 

だから、しんどい時はそう思わせてもらっています。

こういうのはあれかな、野暮というやつなのかな……。すみません。

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてね、これもあれなお話ですけども。

書きたいから書きます。

 

 

実家を売却するために一人で実家の整理をしていた時。

あと2日で処分の業者さんが入るという日。

 

私は自分が赤子の頃のアルバムを処分するため(大きくて保存が難しく……)、せめて中身の写真をデータでとっておこうとスマホでパシャパシャ撮っていたのです。

 

 

そのうちの一つがオルゴール付きのアルバムでね。

中表紙にあるネジを回すと「ゆりかごの唄」が流れる仕様になっていました。

そのアルバムの中身もパシャパシャ撮っていたのです。

 

 

パシャパシャ撮って5ページ目くらいになった時。

急にそのオルゴールが鳴りだしたのですよ。

「ゆりかごの唄」が。

 

しかもちょこっと流れるとかじゃなくて、たっぷり5周くらいしたの。

 

 

 

わんわん泣いてしまった。

 

こういうのは、本当にわからない。本当のことは。

何かの偶然が積み重なっただけなのかもしれない。

 

でも、なんとなく、手放す前に最後に母が音色を聞かせてくれたのかなと、私は思っています。

「ゆりかごの唄」は親から子への唄だものね。

 

 

見えなくてもいい。本当は見えてほしいけど。

そばにいてくれているのかもしれないと思える出来事でした。

 

 

帰宅した夫さんに言ったら「それは間違いなくお母さんだね」と、謎に自信満々に断言されました(笑)

そう言ってくれる人でよかった。

 

 

 

 

 

___

 

母の死から早いもので5カ月が経ってしまいました。

 

大丈夫だ、私意外と落ち込んでないぞ!と思って過ごしてきたここまでの日々ですが、やっぱり結構ずしんときていて、時々発作のように泣けてきてしまうことが今でもあります。

 

 

 

そんなこともあって「ブログに記します。記さないと前に進めないので!」とか宣言しておいて、ブログに向かうたびに箱ティッシュを一箱使っちゃって全然進まない……みたいな。

亀のあゆみで記しきるまでにここまでの時間がかかってしまったという。

呆れちゃうよね……(笑)

 

 

 

そして今文字カウンターを見たら、なんと45000字超えだってさ……!

卒論かよーーー!!

 

 

ここまで読んでくださった方がいらっしゃるなら、本当に本当に長いこと目を通してくださってありがとうございます……。

いい加減、もう締めますよ……!

 

 

 

 

 

そうだ。

途中で「食べられなくて体重がするする落ちて……」的なことを記しましたが、今は大丈夫です。

 

当時は一気に8キロくらい体重が落ちてしまいました。

が、なんと見た目があまり変わらなかった私……。

 

それでも葬儀の時に喪服を着たら、伯母の一周忌の時はコロナ太りでパツパツしていたはずの喪服がゆるっと着られるようになっておりました。

 

その後は減った分を取り返すかのように「すごい食べちゃう期間」がやってきて体重増。

と思ったらお腹を下してげっそりし……を繰り返す、ちょっとしんどい日々があり。

 

その波も落ち着いて、今はコロナ前くらいの体重に戻って体調も落ち着いております。

なのでご心配なく^^

 

 

 

書き始めるとどんどん書いちゃうぞ……!

本当にもう締めますね!!!

 

 

 

 

最後に。

 

 

私がしんどい時に、気にかけてメッセージをくださった方、お心を寄せてくださった方々に心からの感謝を。

 

 

 

私が母を看取ることができたのは、夫さんや親族の支え、病院関係者や介護関係、看護関係の皆さまのお力あってのことです。

 

けれど。

私の気持ちが折れることなくいられたのは、「いつでも頼って」と言ってくれた友人や、「吐き出したいときはいつでも連絡してきてね」と言ってくれた友人や、まだお会いしたことはないけれどあたたかい言葉とともに「待ってます」と言ってくださったSNSで繋がっている方々がいてくださったからだと思っています。

 

 

 

 

そして、SNSで母の死を知ってすぐに連絡してきてくれた友人たちにも、心救われました。

 

何人かの友人が「ずっと心配していたけれど何て言葉をかけていいか分からなくて今日になってしまった」とメッセージに記してくれました。

 

私にはその気持ちがありがたいのです。

そうして私にかける言葉を悩んだ結果、送らないという選択肢もあったのに、時間をつかって私を気遣う言葉をくれたことが嬉しい。

 

 

 

それから、そっとお悔やみの品を送ってくれた友人もいました。

本当に嬉しかった。

突然届いた荷物に友人の名前があった時のあの気持ちは、きっとずっと忘れないと思います。

 

 

 

 

 

私はもともと友人付き合いがあまり得意ではありませんでした。

 

複数人でいっぺんに仲良くするのがちょっと苦手だったり、プライドばっかり高くて孤立してしまったりした時期もありました。

 

そのころは、母がいなくなってしまったら、私はひとりぼっちになってしまうと思っていました。

 

 

 

けれど、母が一生懸命働いて入れてくれた学校、その先の就職先で、今の友人や夫さんと出会えました。

 

母は見えなくなってしまったけれど、私はひとりぼっちにはなりませんでした。

 

 

 

 

私がすごくしんどい時に、心を寄り添わせてくれる人たちがいてくれることの幸せ。

感謝でいっぱいです。

 

 

この場を借りて、支えてくださって本当にありがとうございました。

 

本当はこれ↑を一番伝えたくて、ブログを書きたかったのでした。

 

 

 

 

 

ここまで読んでくださったことも、ありがとう!!!

 

心からの感謝と、これからもどうかよろしくねの気持ちを込めて!

 

 

 

 

 

おわり

 

 

hachiko