S2 ep131 鉛色の朝、昭和の差別への後悔……。 | イナギFIVE-0 エアガンライフ

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エアガンなどテッポウ遊びの雑感。サバゲ、時々行ってます。

 今回はエアガンとは関係ない話です。不適切と思われる表現がありますが、過去の検証のためありのままに表記します。



 今日も朝から雨で、こんなどんよりとした日は、何だか昔のことを思い出してしまう。普段なら思い出しても噛みしめるようなことはしない思い出も、こんな日はサキイカを噛むように、何度も何度も繰り返し思い出し、深く考え、自分がいかにダメだったかを厳しく指摘し、自虐的に自分自身をいたぶる。せめてできる過去への贖罪であるかのように……。



 私が小学校のころ、同じ学年にその子がいた。M子さん。今はどうかわからないが、その頃は学年に1人か2人はきたない感じの子がいた。当然(というのはひどいが)、当然そういう子は嫌われた。M子さんも、露骨にいじめられたりということはなかったが、近づいたり、触ったり、フォークダンスで手をつなぐときなどに、「わぁ、きたない」ということを直接は言わないが、身振りでみんなしていた。


 実際、M子さんは、今思い出してもきたない印象を与えるように思える。何が、と言われると困る。服装なのか、肌の色なのか、顔の造作、顔の表情、動作、性格、それらが合わさってなのか。M子さんの住まいも、当時としてもみすぼらしい家で、川の土手の下という場所もよくなかった。みんなその家も知っていたので、なおいっそうだった。


 もしかしたらM子さんは、発達障害ではないが、そういった発育上の問題があったのかもしれない。みんなからきたがられても、怒ったり、泣いたり、落ち込んだりといったことがなかった。いや、内心はわからない。だが、外には表れてなかったと思う。表情が乏しいのか。私もそんな感じは受けなかった。だから平気でそういう差別をしていたのではないかと思う。


 前記のように家庭も裕福ではなく、言ってしまえば貧乏で(ただ、昭和40年代はそういう貧乏な家庭は珍しくはなかった)、親御さんもどちらかといえば同じようなきたない印象を受けるタイプだった。親御さんが怒って学校に訴えるということもなかったと思う。我々が先生から注意されたこともなかった。それもひどい話だ。私の母親ですら、差別的に考えていたふしがあった。


 何が言いたいかというと、今になって思い返すと、私はずいぶんひどいことをしてしまったなと悲しくなってしまう、ということ。また、他の友達や学校、先生も、誰一人として正しくなかった。正しいことをする人がいなかった。それもまた腹立たしくもあり、悲しくもある。


 今の私はいちおう子供がいて、もし自分の子供がそういう扱いを受けたらと思うと……。自分がそういうめにあって初めて他人の身になって考える、他人に対する言動を改めるというのはダメだ、全然ダメ。


 人生には、時に残酷なこともあるが、こんな残酷なことは許されてはいけない。なぜだれも言わなかったんだろう。なぜ自分は一顧だにしなかったのだろう。できなかったのだろう。

 

 思い返せば、小学校から中学まで9年間同じ学校にいて、私はM子さんと面と向かってちゃんと話したことは一度もなかった。


 M子さんは、中学を卒業すると地元の工場に就職したと聞いた。それ以降は、おそらく20年以上は思い出すこともなかったと思う。その後、我々が35歳くらいの時に開催された同窓会で、級友の女性からM子さんのその後の話を聞いたように覚えている。いや、もしかしたらそれは夢か思い違いだったのかもしれない。今となってははっきりしないのだが。


「M子ちゃんは亡くなったそうよ」



 それからさらに20年以上が経ち、その間一度も思い出さなかったM子さんのことを今日思い出している。このどんよりと重く鉛色に湿った朝のせいだ。そして、今の私の何かが思い出させたのだろう。