Normalizationの矛盾 | 心よろず屋

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常態行動心理学者の瀬木と申します。
此処では心に纏わる様々な事をテーマに日々綴ります。
心に纏わる凡ての事にお答えを差し上げます。
貴方の心の宿り木は此処に有ります。

Normalisationという言葉が叫ばれて久しくなる。

平たく言えば差別をなくしましょうという意味と
日本語的解釈ではそうなります。

日本語的解釈ではと書いたのには理由がある。
Normalisationを差別をなくしましょうと訳しているのは
日本だけというか極少数派であると言う事である。

何故日本を含む少数派しかこの訳語を使っていないのか?
それには理由がある。

それはこの訳語自体が差別語だから。
先ずこの訳語自体差別肯定語である事に気づいていない。
更にこの訳語を言えるのは差別者に限定されると言う事。
実際差別を受けている側の言葉ではないという事である。

差別を受けている側からすれば
何上から目線で物言っとんねんとなる。
私自身もこのNormalizationという言葉は大ッ嫌いである。

区別と差別は違います、区別は横分け差別は楯分けです。
区別は順列はありませんが差別は順列があります。

所謂徒競走における順位は区別です。
学芸会における役割振分けも区別です。

然し虐めは明らかな差別です。
相手が反論できない点を突く事は差別です。

Normalizationは一見差別をなくしましょうとなるが、
その中身は思い切り差別意識のある言葉である。

もう少し言葉は正しく認識しましょうよ。