緊急事態宣言五日目 
雨の昭和の日 参拝者も少なかったです。
 そんな中昭和祭を一人奉仕で勤めました。



 
昭和天皇でまず思い出されるのは連合国軍司令官ダグラス・マッカーサーとの会見のエピソードです。 
天皇のアメリカ大使公邸への訪問を知らされた時にマッカーサーはどうせ命乞いに来たんだろうと出迎えもせずにソファーに座ったままパイプをくわえて天皇を完全に見下していました。
 ところが昭和天皇がご自身の進退について語られたことは 
『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り日本にただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこといかなる極刑に処されてもいつでも応ずるだけの覚悟があります。しかしながら罪なき8000万の国民が住むに家がなく着るに衣がなく食するに食なき姿においてまさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして国民たちの衣食住の点のみご高配を賜りますように。』 
そのお言葉にマッカーサーは驚いたのです。
かつて世界の歴史において自分の命と引き換えに国民を救おうとした国王がいただろうか? 

『天皇とはこのようなものでありましたか!
天皇とはこのようなものでありましたか!
私も日本人に生まれたかったです。
 陛下 ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば何なりと申しつけて下さい。』 

『命をかけて閣下のお袖にすがっておりまする。
この私に何の望みがありましょう。
重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように』 
天皇とはどのようなものであるかをよく物語るエピソードだと思います。
 

あの戦争 そしてその戦争にいたる日本の歩みを戦後はただ日本だけが悪いように教え込まれてきていますが、明治維新後アジアではいち早く近代国家に衣替えをして国を発展させてどこの国の植民地にもならずに戦ったことが国民や他国民に多大な犠牲を強いることになった面は悪かったことです。しかし聖戦とまではいいませんが、日本が戦ったことでこの世界で一番古い国とも言われている日本の歴史と伝統が途絶えずに残ったばかりか欧米各国の植民地下に置かれていたアジアの各国が独立する機運につながったのです。日本が最後に戦争に負けたばかりに日本だけが悪かったように裁かれ、いまだにそう思い込まされていることにそろそろ気づかないと過去の過ちもほんとに生かすことは出来ないのです。 

日本は韓国を併合していましたが、植民地にしたわけではなく、朝鮮の王家も王公族とし日本の皇族に準ずるものとしたのです。李王朝最後の皇太子李垠殿下に昭和天皇のお妃候補の一人で皇族であった梨本宮守正王第一王女子方子殿下が嫁いでおられます。
戦後身位を喪失し無国籍となって韓国に戻ることも出来ない両殿下は日本にとどまって苦労されましたが、後に韓国籍を回復して帰国されました。
垠殿下亡き後も方子殿下(ほんとはその時はもう殿下ではありませんが)は日韓の架け橋の役割を果たされました。また韓国の障害者福祉に尽力されたほか在韓日本婦人会芙蓉会の初代名誉会長を勤められました。 
戦前朝鮮人と結婚した日本人の女性の多くが戦後韓国に夫と共に渡りましたが、中には韓国に本妻がいたり、日本人に対する差別があったりして苦労された人がたくさんいました。そういう日本婦人を保護する施設をクリスチャンである金龍成氏が作られたのが慶州ナザレ園ですね。金氏はお父さんが戦前日本の官憲に捕まり拷問にあったと聞いた記憶があります。 
私はずいぶん昔の話ですが、李方子殿下とも交流のあった石川洋先生に同行させていただいて慶州ナザレ園を訪問したことがあります。その当時はまだたくさんの日本人のおばあちゃんが施設で暮らしていました。そして施設外に暮らす日本婦人の支援もして下さっており、私達は木浦の町を訪ね、在韓日本婦人会芙蓉会木浦支部の皆さんと交流しました。その時出会った木浦芙蓉会の佐藤静子さんとそれから私は文通をさせていただきましたが、遠い昔のことに思っていた戦争時代が過去のことではなく今に続いていることを感じました。 

激動の昭和時代でしたが、戦争のない世の実現に努力しつつ先人が戦って守っていただいた日本の歴史と伝統をこれからも大切に守り続けていかなくてはいけません。そしてまだまだ弱い立場の人達にしわ寄せがいきがちな社会のあり方を改善しつつ国民のために祈っていただいている天皇陛下の祈りをいただいて大自然の恵みに感謝し人間のおごりをつつしんでみんなが助け合い世界平和にも貢献できる日本になるように進んでいきましょう。