四国、徳島県三好で、徳島県立池田高校野球部を、40年間指導した蔦監督は、1923年(大正12年)生まれ、2001年(平成13年)、肺がんのため77歳で没。
旧制徳島商業では、甲子園に内野手、投手として3回出場。同志社大では投手、リーグ優勝。
学徒出陣で、海軍特攻隊員に、戦後は、プロ野球東急フライヤーズ(今の日本ハム)に1年在籍、その後、池田高校社会科教員に、それと共に、40年間池田高校野球部監督。
蔦監督の下で、昭和57年からコーチを務めた川原良正さん(75歳)によると、(野球気違いでめちゃくちゃ研究熱心)で、いつも話題は野球のことだったという。
叉、縁起を担ぐなど、繊細な一面もあったようで、いつも多用する言葉は(人生は、敗者復活戦)という言葉だ。
その言葉の裏には、高校野球の監督になって、20年間甲子園に出られなくて、ようやく手にした甲子園出場という長い道のりがあったのだ!
(送りバント)などの小細工をしない攻めの采配力から(攻めだるま)の異名を取り、(さわやかイレブン)(やまびこ打線)として知られる池田高校野球部、甲子園で3回優勝、準優勝2回という輝かしい記録を打ち立て、豪快な野球で名を高めた。