おはようございます⛅️
— わたくし95歳 (@Iam90yearsold) 2024年8月6日
1945年8月6日、広島に原爆投下。直ぐに父は「広島に新型爆弾が落とされた、長崎も危ない、気をつけろ」町内をメガホンで大声で廻り始めた。9日朝も廻っていた。我が家は爆心地から200メートル。父は焼け残った門柱にもてれ道路側を向いて黒焦げになっていた、メガホンを持って。
1945年、私は報国隊で軍需工場に通っていた。8月9日の朝、ある事で機嫌を悪くしていた私に、母は玄関で「怒らないで行きなさい、プンプンしないで。これが最期かも知れないんだから」と言った。150mほど歩き、角を曲がる時、振り返ると母は手を振っていた。そんな見送りをした事はなかったのに。
— わたくし95歳 (@Iam90yearsold) 2024年8月6日
家は爆心地から200m、8月9日の原爆で両親と小学生だった弟3人を亡くした。軍需工場にいた私と、2歳下の妹だけが生き残った。妹は、8月1日の空襲で機銃掃射を受け、あまりの恐怖で、地区の大きな横穴に籠ったきり出て来なかった。だから9日に生き残った。
— わたくし95歳 (@Iam90yearsold) 2024年8月6日
門柱に寄りかかった真っ黒に焼けた父、その大きく開けた口には、爆風の瓦礫がいっぱいに詰まっていた。茶の間だった場所に2番目の弟、廊下だった場所に末の弟を抱きかかえた母、どちらも両手で持ち上げられるほどの黒いかたまりになっていた。焼け残った5cmほどの布切れで、それが誰かがわかった。
— わたくし95歳 (@Iam90yearsold) 2024年8月6日
両親と小学生の弟3人は、私ひとりで火葬した。集めた瓦礫の上にトタンを乗せ、そこに家族を並べた。両手に、炭のようになった家族とその血のりが、べっとりとついた。「私に残されたものはこれだけ」、両手両腕に何度も擦り付けた。燻った瓦礫は直ぐに勢い良く燃え始めた。涙は出なかった。
— わたくし95歳 (@Iam90yearsold) 2024年8月6日
走って行く後ろ姿を睨んでいる私に、母がスッと新しい下駄を差し出した「機嫌をなおして、これを履いて行きなさい」赤い鼻緒だった。「プンプンしないで。これが最期かも知れないんだから」
— わたくし95歳 (@Iam90yearsold) 2024年8月8日
この先は6日に書いたとおり。
長男は、優等生で成績も良く、人を困らせるようなイタズラなどしなかったのに。
毎年8月9日には家族全員で、被爆した家があった場所と長男がダクマ獲りをしていた浦上川に毎年花を手向け手を合わせていた。私が東京に出て来てからも長崎にいる家族が続けてくれている。#戦争反対#核兵器廃絶#核兵器禁止条約
— わたくし95歳 (@Iam90yearsold) 2024年8月8日