弱さを | ティーチの人間観察日記

ティーチの人間観察日記

日々の生活の中で偶然目にした光景、人との繋がりにおけるさまざまな人間模様などを面白おかしく綴ります。

皆様、こんにちは。
毎度お読みいただきありがとうございます。

今回は、人間観察というテーマから少し離れてしまいますが私が最近よく考えることをお話ししたいと思います。

私は会社員であり、妻と子がいます。
妻と知り合ったのは10年前、結婚したのが7年前になります。

まあいわゆるできちゃった婚というやつです。
当時は、できたのだから結婚して子供を産んでもらうのは当然と考えていたので、迷いもなく一緒になりました。

もちろんいろいろな試練がありましたが。。。
その中でも一番の試練が、式を2週間後に控えた時に起きた実母の逝去です。
ちょうど仕事も忙しかったこともあり、私の精神は崩壊寸前だったと思います。
その時からでしょうか、私の考え方が一変してしまったのは。

母は真面目で、誰からも好かれる人格者でありました。
面倒見がよく、情愛に溢れ、困っている人を放っておけない心の優しい方でした。
当時は私もまだ若く、そんな母の優しさを少し疎ましく思っていたのは事実です。

しかし母が亡くなった時に、私の中で何かが音を立てて崩壊しました。

なぜ、母が?
誰よりも真面目に、人に優しく、清廉に生きてきた母が、そこら中に溢れている悪人よりも早く死ななくてはならないのか?

私は世を、神を恨みました。
もとより神を信仰していたわけではなかったのですが、今にして思えばやり場のない怒り、憤り、悲しみを絶対的な存在にぶつけたかったのかもしれません。。(この時点で信仰者みたいなものですが)
とにかく私は神を世を呪い、自分自身を呪いました。
しかし、母は人を恨んだり憎むことが大嫌いでしたので、母の意志を尊重する意味でも、そこで道を踏み外さずに誰も憎まず自身も憎まずに生きてこられたのかもしれません。

それからほどなく子供も産まれ、幸せな家庭を着々と築きあげてきたつもりでした。
私は幸せでした。

しかし、母が亡くなった時に感じた思いは遂に消えることはありませんでした。

それは、世の中の無情さです。

真面目に生きても不真面目に生きても人間最後は必ず死ぬ。
ならば、生きている間は自分の好きなことをしよう。

この考え方が、私の基本方針になったわけです。

それからの日々は、自分でも思い出したくないようなことばかりしていた気がします。

しかしつい最近、無神論者の私を強烈に惹きつけるものが現れました。

今更と言われるかもしれませんが、仏教の始祖であるゴータマ•シッダールタです。

歴史で少し勉強した程度の知識しか持ち合わせていませんでしたが、最近心を痛める出来事があり、何でもいいから癒しを求めていた時に出会った一冊の本が私の心を救いました。

全ての執着を捨て、煩悩を捨て、悟りの境地に入る。

私は、恐らく母を失った時に、この執着心を異常に高めてしまったのでしょう。

思えば、あらゆることに執着した結果、いい方向に進んだことはなかったと思います。
それどころか、執着した結果悪いことばかりついて回りました。

私は、これで仏教徒になるつもりはありません。
しかし、これまでの執着する生き方を変えられる気がします。

物欲、色欲、食欲、睡眠欲、全てを捨て去ることは不可能ですが、少なくとも自分や家族を不幸にする執着からは離れられると信じています。

もう少し、仏教について考えてみようと思います。

人は誰しも迷うもの。
執着し、捨てられない弱い生き物。

すぐには無理でしょうが、少しずつ弱さを克服したい。

母の死から7年、ようやく少し褒めてくれる気がします。

見守ってください、母さん。
あなたの弱い息子は、これから少しずつ弱さを克服していきます。

そちらに行く頃には、少しは立派な人間になってたいです。