もうほとんどアクセスがなくなったみたいなので、備忘録というか自伝というか、日記代わりに。


リアルタイムでは、さっき元妻が何の連絡もなく来ましたが、ドアガードしてあって玄関扉が開かなかったので、インターホンを押してきました。

「荷物を取りに来た」と言うので、時間がかかるようなら自分は出掛けようと思い、どれくらいかかるか聞くと、玄関先にあった郵便物が欲しかっただけだったので、手渡しました。

予め連絡をくれればポストに入れておいたのに…

片付けは?と聞くと、来週は来るとのこと。

こっちから聞かないと言ってこないのか…



話を戻して、私は1980年、両親の第一子として生まれました。

この時、両親は22歳、中学校の同級生だったみたいです。

2年後に弟が生まれました。


当時は、5階建ての雇用促進住宅の4階に、家族4人で住んでいました。

雇用促進住宅には同世代の子どもが沢山住んでいて、外に出ると誰か彼か遊んでいて、遊び相手には困りませんでした。

大人は皆、自分の子どもとか誰かの子どもとか関係なく可愛がってくれ、悪いことをすれば怒られました。


幼少期、父は若かったこともあってか、すぐに怒られ、頭を叩かれたり、ベランダや玄関の外に出されていました。父親が手を振り上げると、反射的に両手で頭を覆う癖があったことは記憶にあります。

そんなことは今思い出したくらいで、他にも楽しいことばかりではなかったのでしょうが、楽しかった記憶しかなく、人生で一番いい時だったかもしれません。


このままずっとここで育って行くのだと思っていましたが、多分保育園の時だったと思いますが、母が胃潰瘍で1回目の入院、手術をすることになり、その間、父方の祖父母の家で生活することになります。


夏休みだったのか、短期間だったから保育園を休んだのか分かりませんが、転園した記憶はありません。

その後、母は入退院を繰り返すことになり、祖母がバスで雇用促進住宅まで面倒を見に通ってくれたりもしましたが、長期間の入院になるとそうも行かず、雇用促進住宅近くの小学校と、祖父母宅近くの小学校、2つの小学校を何度か転校して行ったり来たりしました。


最初の短期入院、通院治療の頃、母は私達兄弟を通院に連れていき、点滴を受けるのですが、幼い兄弟、しかも兄弟喧嘩ばかりしている兄弟は、大人しく待つなんてことが出来ないので、看護師さんに黙って勝手に点滴のスピードを早くしていたのを覚えています。

母は病気がなかなか治らないと、新興宗教みたいなものにもすがったようで、そこで言われたのか、そこら中の公衆トイレを掃除して回ったらしいです。


そして、私が小学3年生の10月、母は亡くなりました。胃ガンと聞いていますが、かなり転移していたのではないでしょうか。

本人は余命宣告されていなかったらしいですが、父が医師から余命半年と宣告されてから2年以上生きたようで、途中からは医師からも、精神力で生きているだけだからあとどれくらい生きるか分からないと言われていたようです。


母が亡くなる前日の夕方、小学校の校庭で友達と遊んでいると、祖母がタクシーで迎えにきました(祖父母は免許を持っていません)。

毎週末、父に連れられ面会に行っていましたし、友達と遊んでいたかった私と弟は、ばあちゃんだけ行ってきて!と言いましたが、説得されて病院に行きました。


多分、もう長くないと連絡があって病院に行ったのでしょうが、病院に着いた時の記憶があまりないのは、いつもの母とあまり変わりがなかったからだと思います。

普段から兄弟喧嘩ばかりしていた私達兄弟は、この時も病室で些細なことから兄弟喧嘩を始め、母から叱られました。本当は叱れるような状態じゃなかったみたいなんですが。


小康状態が続いたからか、その日は帰ることになりました(自分の中では兄弟喧嘩をしてうるさいから帰らさせられたと思っています)。

翌日の早朝、母の姉が祖父母宅の玄関扉を激しく叩き起こされました。どうやって病院まで行ったのか記憶がありませんが、病室に着くと既にたくさんの親戚が集まっており、そのただならぬ雰囲気に、私は母の死を察知したのか、涙が流れてきました。

多分、医師からご臨終ですと言われ、エンゼルケアをしている間だと思いますが、自販機等が置いてあるロビーみたいな所にいた時、朝焼けがとても綺麗だったのを覚えています。


享年31歳でした。