『死者の送り ②』   

 H・A・Shaudowのひとりごと125    2024.05.01

 

 以前、『死者の送り』を概観して投稿したが、今回は少し掘り下げてみる。

 

 人間は他の動物と違って死に接したとき、いろいろな儀式を伴って死者を見送る。

 その送り方は多様で国や人種、民族の違いなどによって差異があり、中でも信仰する宗教や宗派による違いには大きなものがある。

 

 例えば、釈迦が入滅して火葬された後の遺骨を求めて争いがあったインドでは、仏教が廃れた現代も80%を超えるヒンドゥー教徒は火葬を選択している。

 ヒンドゥー教徒は霊魂と肉体を分けて考え、人間は死ぬと霊魂は肉体と分離されると信じている。

 肉体は物質であり、遺灰は聖なるガンジス川に流すか、もしくは様々な場所に散骨される。

 

 そして霊魂は解脱するか、天に昇るか、あるいは輪廻して新しく次の世に生まれ変わるかである。

 従ってお墓は必要なく、それぞれの家には位牌も存在しない。

 

 次に世界の宗教人口の半数以上を占めるキリスト教とイスラム教の長兄的存在といわれるユダヤ教はどうだろうか。

 ユダヤ教の経典モーセ五書の一つである創世記3章19節に「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはチリだから、チリに帰らなければならない」

 また、申命記34章5節に「こうして主の下僕モーセは主の言葉の通りにモアブの地で死んだ」。

 そして6節に「主は彼をベテペオルに対するモアブの地の谷に葬られたが、今日までその墓を知る人はいない」とある。すなわちユダヤ教は経典で土葬を義務付けているのである。

 

 ユダヤ教の経典を『旧約聖書』として受け継いだキリスト教は、キリストの再臨と共にすべての死者は復活して最後の審判を受けることになっているので焼却はあり得ない。

 また、魔女狩りや異端審判で裁かれた者は復活が認められない火刑に処せられたのも宗教的な懲罰が込められていたといえる。

 

 宗教改革で台頭した合理主義的なプロテスタント教会は早くから火葬を受け入れてきた。

 火葬に批判的であったカトリックも時代の波に抗しきれず火葬を公認したのは1963年のことであり、2021年には57%を超える火葬の普及率となったが、半数近くは教説に従い現在も土葬を受け継いでいる。

 

 そしてイスラム教だが、経典『クルアーン』80章20節「(母の胎内からの)彼の道を容易になされ」、21節「やがて彼を死なせて墓場に埋め」、そして22節に「それから御望みの時に、彼を甦らせる」とある。

 つまりイスラム教は経典で火葬を厳禁しているのである。

 

 さて日本だが、複雑な宗教事情をもつ我が国は死者の送り方も単純ではない。

 まず火葬は、文武天皇4年(700年)、唐に滞在中、玄昭の教えを受けた元興寺の僧・道昭が最初で、遺言通りに飛鳥の粟原で火葬に付されたと『続日本紀』は伝えている。

 

 道昭の死後から3年後の大宝2年(703年)、持統天皇が崩御した。

 遺言の有無は不明だが深く仏教を信心していたのだろう、1年の殯期間を経て彼女は荼毘に付され、遺骨は夫である天武天皇の大内山稜に合葬された。

 この後、貴族社会で火葬が急激に増えたのだが、天皇と高僧による火葬が当時の葬法に大きな変化をもたらしたことは間違いない。

 

 しかし、近年の研究成果は次々と新しい事実を見せてくれる。

 一つは道昭を遡ること100年、6世紀末から7世紀初頭に火葬があったことをあからさまにした。

 

 横穴式竃型木芯粘土室と呼ばれる現在の遺体焼却炉は静岡県磐田市で発見された。

 それは、木材で組み上げた骨組みの上に遺体を寝かせ、粘土で覆った後に火を点け火葬にしたものだが、火葬後に遺骨を取り出すことはせず、そのまま墳丘を築き埋葬地とした。

 

 もう一つの火葬事例だが、こちらはなんと縄文時代まで遡る。

 南は鹿児島県種子島から北は北海道まで土器棺に納められた焼けた人骨(焼人骨)が多数発見されている。

 しかも、この焼人骨には二通りの葬法があった。

 一つは遺体を樹皮で覆って土葬し、後日に掘り起こし焼骨する、もう一つは土葬せずにいきなり火葬をする。

 そしてどちらも選骨をし、骨壺に入れるものと残りの骨に別け、改めて埋納するという、6~7世紀の事例よりもはるかに現代に近い葬法が採られていた。

 

 時代は下って初めて火葬にふされた持統天皇以降の天皇家の葬儀は同じ火葬でも新しい儀礼を試みようとしていた。

 養老5年(721年)に崩御した元明天皇は遺詔(天皇の遺言)で次のことを命じていた。

 ① 山中で火葬し葬送地を移動させないこと、

 ② 陵は自然の地形を利用し新たに造営しないこと、などとし従来の大規模な古墳を否定した。

 

 承和7年(840年)5月2日に崩御した淳和上皇は遺骨を砕いてすべての遺灰を山中に撒く散骨葬を命じ、承和9年(842年)7月に亡くなった嵯峨上皇に至っては先霊の祟りを否定し、自らの陵も棺の大きさでよいとし、樹木も植えず、野草の生えるに任せ、永続的な祭祀を不要とした。

 臣下にとってあまりに革新的で受け入れ難い嵯峨上皇の葬法は、承和11年(844年)先霊の祟りを復活した仁明天皇によって踏襲されることはなかった。

 

 しかし、自らの陵を質素にと求めた日本の天皇の思いはその後も引き継がれ、他国の君主のように自らの墓を豪華で大きなものとすることはなかった。

 

 また我が国の天皇の葬儀は宗教によって決められることはなく、土葬と火葬とが混在していたが、承応3年(1654年)の後光明天皇が土葬されてからは火葬による送りはなくなった。

 これは、火葬は遺体を毀損させてはならないとする儒教の教えを採用したもので、日本古来の神道の教えによるものではない。

 それは先述のように縄文期に火葬が行われていたことからも明らかだ。

 

 明治政府は明治6年(1873年)に火葬禁止令を公布したが、当時の〝神道〟は欧米列強並みの強い国を創るためにはキリスト教のような宗教が必要との理由によって明治政府が新しく作った「国家神道」という新宗教であった(キリスト教を日本の国教にしようとする案もあった)。

 

 従って、八百万の神を崇拝する古来の神道と、明治期に創られた〝国家神道〟はまったく違うものだということが外国人はもちろん、現代においても知らない日本人が多いのは困ったことだが、いい加減に正しい教育をしてほしいものだ。

 もっとも土葬の土地不足や、火葬料の高騰などの理由で火葬禁止令は2年後に廃止されている。

 

 さて、土葬にしろ火葬にしろ、これらの葬法は社会的に身分のある人もしくは金銭的に余裕のある人に限られた葬法であって、一般民衆は全く違う送り方をしていた。

 

 それは我が国に限らず世界各地で行われていたもので、「遺体放置」、すなわち死者を地上に置いてそのまま帰るというものであった。

 

 風雨にさらされ朽ちていくのが「風葬」、遺体を鳥に処理させる「鳥葬」などと呼ばれるもので、現代人には考えられないが、当時の人たちには死体を「棄てる」のではなく、「葬る」という意識があったものと思われる。

 

  万葉集にも柿本人麻呂の「衾道(フスマジ)を引手の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし」(2巻212)や、田辺福麻呂の「あしひきの荒山中に送り置きて帰らふ見れば情(ココロ)苦しくも」(9巻1806)のように死体遺棄を詠んだ歌が残されている。

 

 また仏教では死体を動物に施すことを功徳とする『捨身飼虎』の説話もあり、実際に善法という僧は自らの肉体を鳥獣に施すように遺言し、実行されたと『拾遺往生伝』巻下27話は伝えている。

 他にも親鸞や一遍も風葬を遺言していたが弟子たちは実行しなかった。

 

 このように有史以前の地球上のあらゆる場所で、死体放置は行われていたと思われる。

 「遺体放置」が貧者たちに限られた葬法ではなかったという事例もある。

 承保4年(1077年)9月、白河天皇の第一皇子・敦文親王が当時流行っていた痘瘡(トウソウ、天然痘)を患い4歳で亡くなったとき、胞衣(エナ:へその緒)と共に産着にくるまれ東山大谷に棄てられた。

 

 平安時代はたとえ天皇の子であっても7歳以下は風葬が定めであった。

 それは源俊房の日記『水左記(スイサキ)』に「7歳までは尊卑の区別はない」と書かれており、「天皇の子も風葬」には社会も天皇自身も違和感はなく至極当然のように行われていたのだろう。

 

 遺体の棄て場所も決められており、東山西麓の鳥辺野(トリベノ)、平安京北の蓮台野(レンダイノ)、同じく平安京西側の化野(アダシノ)などがそうであったが、京内に棄てられる死体も数多く見られた。

 当時はすでに荒れ果てていた羅城門の楼上には多くの遺体があったことは『今昔物語集』にもみることができる。

 

 『拾遺往生伝』には下道重武(シモミチノシゲタケ)が病気になり親族も貯えもなく周りに迷惑をかけれないと自分で八条河原に出かけて死んだという話が載っている。

 

 貴族などの使用人が病気になっても屋敷内で死なれては穢(ケガレ)になると路上に放りだされたが、このような病人が雨風をしのぐために羅城門に集まって死を迎えたのかも知れない。

 

 飢饉や疫病に襲われたことが度々あった平安期の都には、数多くの死体がコロがっていたであろうことは容易に想像がつく。

 京内には放置された遺体を埋葬してわずかの報酬を得る私度僧もあった。琵琶法師もそうした人たちであったが、都にはあまりある亡骸がある。

 

 それがたとえ棄てられた死体ではなく葬られたものであっても、鳥や犬からすれば路上の死体もエサに過ぎず、身体の一部を咥えた犬が内裏や貴族の屋敷に入り込む光景が頻繁にみられるようになった。

 

 当時の社会には死を穢(ケガレ)とする考えがあり、「穢」は排除すべきものとした『延喜式』延喜5年(905年)は五体不具穢(ゴタイフグエ)に関して具体的な指針を示した。

 屋敷内に死者が出れば最も重い穢となり、30日間は公務に就けず自宅謹慎となる。それが身体の一部であれば3日や7日など細かく決められており、平安時代には五体不具穢に関する貴族の日記が数多く残されている。鴨川の近くに住んでいた九条兼実の屋敷は何度も五体不具穢に悩まされていたようだ。

 

 ケガレの観念が社会に浸透したのは神話の影響によるものが大きいのかも知れない。

 日本人の多くは生前の行ないによって極楽あるいは地獄に落とされると思っているようだが、この思考はキリスト教など一神教によるもので、古来の日本民族は生前の行ないとは関係なく八百万の神も、すべての人間も、死ねば「黄泉国(ヨミノクニ)」へ行くと考えていた。

 

 ところが、亡くなった伊邪那美に「もう一度会いたい」と黄泉国を訪れた伊邪那岐は、変わり果てた妻の姿に畏れ逃げ帰ったという日本神話から、「死=穢」の観念を抱くようにったのだろう。

 

 ケガレの信仰は日本にもあったであろうが、井沢元彦氏のようにそれが遷都の要因だとは考えにくい。

 

 日本民族はもっとおおらかで楽天的な性格であったはずだ。

 絶え間なくやってくる自然災害に対しても諦めと畏怖の念を抱きつつ、切り替えて明日を生きる現世肯定的な日本人であったと信じる。

 

 その後、仏教が入ってきて現世を否定する教えを受けても、本来持ち合わせている現実生活を楽しもうとする本質は変わらなかったのではないか。

 

 葬送の歴史をみても、縄文・弥生の時代から土葬もあれば火葬もあった。

 万葉集には風葬の歌以外にも柿本人麻呂の「山の際(マ)ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山のにたなびく」(3巻429)という火葬を詠んだ歌があり、他には散骨を歌った「玉梓(タマズサ)の妹(イモ)は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りむる」(作者不詳、7巻ん1415)もある。

 

 皇族や貴族には火葬が多くみられるが、一般人に浸透しなかったことには理由がある。

 『日本霊異記』下巻第38話に私度僧・景戒(キョウカイ)の夢の話が出てくる。

 夢の中で自分が死に、火葬されているが、うまく焼けない。

 それを見ていた自分が死体をつついて裏返し、「こうやって焼きなさい」と教えている。

 やがて死体の全体がまんべんなく焼けたという。

 

 つまり火葬には火力を補うために十分な薪が必要であるし、死体を焼く人も江戸時代になると三昧聖(サンマイヒジリ)という専門職人が現れるが、当時は点火は貴族が行ない火の管理は貴族と寺僧の2名ずつが担当していたという。

 従って民間人では経験ある僧を雇えるはずもなく土葬が多かったということになる。

 

 ここまで死者の送り方をみてきて、他の国々では宗教によって葬法が決められているのが通常だ。

 しかし、我が国においては仏教も儒教もキリスト教も入ってきてはいるのだがその影響を受けていない。

 あくまで当事者の都合で決められていて、為政者もそれを強制することもない。

 まさにこの国は古来より、天皇も民間人も平等であり、多様性が認められた社会であったのだが、3つの外圧で解体されてしまった。

 仏教伝来は消化できたが残りの2つは消化不良のままだ。