「北斎のこと~④」

~Shaudowの ひとりごと122

                                  2024.03.09 H・A・笑童

 

 何とも楽しい絵だが、豊かな才能を感じる。

 ドシロウトにもそう思わせるのは「北斎」という名前によるのかも知れない。

 並みの努力ではないだろうが天才が努力するとこうなるのだろう。

 絵手本にあったものなので50歳前後の作品か?

 

 絵師・北斎が70年間に書いた絵は40,000図とされているが、その中で登場人物が「笑っている」図を多く見ることができる。

 

 大口を開けて笑っている職人や、美人画の含み笑い、神仏の笑い、不気味な妖怪の笑い、擬人化した動物の笑いなど多彩な笑いの世界がそこにある。

 

 今回模写したのは上を向いた後ろ姿の町人で、笑い顔は見えないがおそらく笑っているのだろう。

 この絵を見た人も笑っているはずだ。

 

 

                        Shaudow画(『北斎漫画』)より模写

 

 

【北斎劇場】④

 

*天明7年(1787)、春朗(北斎)28歳、妻・きみ20歳、長男・富之助1歳。

 

 天明7年頃から寛政4年(1792)頃までを第3期春朗期と呼び、師・春章の色を残しつつ、春朗自身の独自色を発揮し始めた時期とされている。

 

 この年の5月20日、米価高騰のあおりで深川、四谷、青山の米屋が襲撃を受け、翌21日には高輪、新橋、京橋、神田、日本橋まで広がったが、この騒動は24日に収まっている。

 6月19日、田沼意次の失脚後、陸奥白川藩3代藩主松平定信が老中に就任、ドラマ『剣客商売』にみられる如く、田沼の後釜には政敵であった定信が就いた。

 

 定信は老中就任後に緊縮財政、庶民の倹約、幕府批判の禁止などを実施した(寛政の改革)。

 前回のブログに紹介したように、庶民が田沼意次を懐かしんで詠んだ「白河の 清きに魚も 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき」の狂歌には、定信が白川藩の養子であったことを皮肉った内容も込められている。

 

 当時の日本人の町人から農民にまで及ぶ識字率の高さと教養あふれるユーモアは、アメリカはもちろんヨーロッパをも凌駕し、世界に抜きんでていた。

 

 そして田沼時代に花開いた町人文化はその後も衰えることなく、芝居小屋を飾る役者絵や錦絵は、江戸町人にとって最も購買意欲を掻き立てるものであった。

 春朗(北斎)や他の絵師たちはこぞって役者や芝居にまつわる題材を好んで描くようになっていく。

 

 芝居小屋は上方が本流であったが江戸においても上方に負けず劣らず活況を呈していた。

 

 江戸の街には「日千両(ヒセンリョウ)」という1日に千両の金が動くとされたところが3ヶ所あり、芝居小屋は「昼千両」と言われており、他には「朝千両」の魚河岸、「夜千両」の吉原があった。

 

 当時の江戸における芝居小屋は、明け六つ(朝5時~7時頃)から夕七つ(15時~17時頃)までの1日2回公演で、夏季、冬季の日照時間により変わっていた。

 

 また江戸の芝居小屋は公儀(「幕府」という言葉は江戸末期に藤田東湖など水戸藩氏によって広まったもので、それまでは「公儀」が使われていた)が認めた江戸三座に限られていた。

 三座とは中村座、市村座、森田座をいい、火災など諸事情で興行できなくなった時には控櫓(ヒカエヤグラ)といって代わりに興行権を得る小屋もあらかじめ決められていた。

 中村座の控櫓は都座(ミヤコザ)、市村座は桐座(キリザ)、森田座には河原崎座(カワラザキザ)といった具合であった。

 

 この年(天明7年)の11月、春朗は「浮き絵」(西洋画の遠近法を採り入れ浮き出て見える画法)を採用して描いた『浮絵元祖東都歌舞伎(ウキエガンソトウトカブキ)大芝居之図』は、市村座の控櫓であった桐座の舞台である。

 

    春朗(北斎)『浮絵元祖東都歌舞伎大芝居之図』

 

 ちなみに松平定信は寛政2年(1790)、石川島(現東京都中央区佃2丁目付近)に1万6千坪の土地を使って犯罪人のための自立支援施設である人足寄場を設置している。

 命じられたのは火付盗賊改方の長谷川平蔵である。

「長谷川平蔵」という名は旗本父子三代に続く通称で、池波正太郎がモデルとした平蔵は長谷川宜以(ノブタメ)のことであった。

 

 また、「ドラ孫」と呼ばれた北斎の道楽孫も、後にここに送られている。