「北斎のこと~③」

  ~Shaudowの ひとりごと120

            2024.01.31 H・A・笑童

 

 この絵も北斎漫画を模写したものだ。

 例によって、何と呼べばいいのかわからないので「漁師と蛸」とでもしておこう。

 北斎は奇想天外な絵を数多く残している。彼のやわらかな頭は自由な発想を生み出す。

 従って、北斎は「絵」だけではなく、その文才を活かしてやはり数多くの戯作(ゲサク)も手がけている。

 そのときのペンネーム(戯作者名)として知られているのは、「是和斎(コレワサイ)」、「東都魚佛(トウトギョブツ)」、「闇雲山人(ヤミクモサンジン)」などがある。

      Shaudow画(北斎「漁師と蛸(?)」模写)

 

【北斎劇場】③

 天明2年(1782年)23歳の頃、勝川春朗ではなく勝春朗の名で「市川團十郎の大星由良之助」などの役者絵を多く描いている。

 大星由良之助とは浄瑠璃や歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の登場人物であり、赤穂事件の大石内蔵助がモデルであることは誰もが知っている。

 

 「仮名手本」とは江戸時代の子供たちが寺子屋で習った読み書きのお手本「いろは四十七文字」のことであり、「赤穂四十七士」との「四十七つながり」を意識したものだろう。

 

 また赤穂藩士は忠臣の侍として庶民から絶大の支持を得ており、「蔵」は大事なものを収めるところ、つまり私たちが使っている「忠臣蔵」という言葉は、赤穂事件を題材にした当時の作者がつくった造語である。

 

 この頃の春朗は、役者絵の他にも相撲絵や談義本(ダンギボン)にも多くの絵を提供していた。

 談義本とは仏教の教義や道徳などを面白く紹介したり、当時の世相を風刺したりしたもので人気があった。

 

 天明3年(1783年)12月、蔦谷重三郎(ツタヤ ジュウザブロウ)が日本橋に地本問屋「耕書堂(コウショドウ)」をオープンし、江戸一番の版元をスタートさせた。

 現在のTUTAYAはもちろん「蔦屋重三郎」から頂戴したものである。

 

 天明5年(1785年)、師の勝川派を離れ、群馬亭(グンバテイ)を名乗るが生活は困窮し、唐辛子売りや柱暦(ハシラゴヨミ)売りをしてしのいでいたという。

 以前に紹介したブログ『北斎も描いた子子子‥‥』もこの頃の作品なのだろう。

 

 天明6年(1786年)、群馬亭と改めた春朗は27歳の時、きみ(19歳)と結婚し、翌年長男の富之助を授かっている。

 

 この頃の日本は、天明2年から天明8年にかけて発生した天明大飢饉の真っただ中にあった。

 日本のみならず世界中に異常気象を発生させた原因は、火山の噴煙に伴う日傘効果であった。

 1783年から1785年にかけてアイスランドで起こった大噴火の塵は、地球の北半球全体に 低温化と冷害をもたらし、フランス革命の原因にもなったとされている。

 

 そして日本では、老中松平定信の「寛政の改革」で緊縮財政と庶民への倹約が徹底され、江戸庶民からは「白河の 清きに魚も 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき」と、田沼時代を懐かしむ狂歌がもてはやされた。

 

 さて、江戸の三大革命といえば享保の改革、寛政の改革、そして天保の改革であり、田沼意次の実行しようとした改革は賄賂が横行し乱れた政治が行われた、と私たちは中学の歴史で教わってきた。

 

 このことは社会主義のように一人一人に土地を与えようとした奈良時代の律令政府が作った法律、班田収授法(ハンデンシュウジュホウ)・三世一身法(サンゼイッシンホウ)・墾田永年私財法(コンデンエイネンシザイホウ)と同様に、戦後の左傾した歴史教員が喜びそうな話ではある。

 

 しかし、田沼が最初に手を付けたのは、当時の日本で東が金貨、西の銀貨と分かれ、流通に支障をきたしていたのを共通の通貨を発行し、為替レートを固定することであった。

 

 また田沼は、通貨の役割をしていたコメ中心の経済を、貨幣経済中心の国づくりに改め、「士農工商」と呼ばれて卑しいものとされていた商業を奨励したことで、歌舞伎などの江戸文化が花開いた。

 

 その中で大きな効果を生んだのは「日光社参」であった。これは徳川家康の命日に行なわれる日光東照宮への参拝のことだが、このことが貨幣の流通を促進させ町人文化を発展させる素地をつくっていった。

 

 しかし、いいことばかりではなかった。

 町人文化が華やかになるにつれ、もともとが薄利であった農民の不満が大きくなり、天明の大飢饉に伴う冷害の影響もあって農作地を放棄して江戸に流れ込む農民が増えていった(東京一極集中の「ハシリ」か)。

 

 そして田沼意次を一気に失脚に追い込んだのは、天明の大火と浅間山の大噴火という自然災害であった。

 経済オンチの幕府の中に田沼の政策を理解する役人があれば、また自然災害の時期が少しでもずれていれば日本の歴史は変わったものになっていただろう。

 

 緊縮財政を推し進めた江戸の三大改革と、現代の岸田政権の緊縮財政は同じ道を歩んでいる。

 

 また現代は未曽有の自然災害の活性期に入っている。

 そしてそのような災害がやってくれば、そのとき日本人が住める土地ではなくなっているかも知れない。