Shaudowの ひとりごと82「運転技術が‥‥」

                                    2022.05.31  H・A・笑童

 

 先日、運転免許証の返納に関連するブログを投稿した。

 実は、私自身、返納を考えたことがあった。

 

 運転は格別に好きというわけではないが、苦手でもない。

事実、知らない土地の景色を見ながらハンドルを握るのは楽しいものだ。

 列車とは違った趣があり、別の世界に来たようなウキウキした気持になる。

 

 ではなぜ、その楽しみを自らの手で捨てようと思ったのだろうか。

 

 ここ数年前から、運転をしてて「恐怖」とも違う「ヒヤッ!」とすることがよくある。

 

 例えば、幹線道路で右折する大型トラックがあると、並行せずに車間距離を取り後ろに下がり、トラックの右折を確認した後、交差点を通過する。

 それは内輪差があるのでトラックは少し左にハンドルをきって右折するからだ。

 

 ところが先日、片側3車線の右折レーンを走る軽自動車の左側直進レーンを4、5m遅れて、私の車が走っていた。

 ブレーキランプが点灯しスピードを少し落としたので、こちらもブレークペダルに足をかけた。

「右折するのだろう」と思った瞬間、軽自動車は車線を越えて1.0m近く左に寄ってきたのだ。

 

 慌ててブレーキを踏んだが、後続車があれば追突されていただろう。

 その軽自動車は大型トラックと同じように一旦左にハンドルをきり、そのまま右折して走り去った

 

 また、ある時は、あまり広くない生活道路を通行中、一方通行でもないので前から車がやってきた。

 そのまますれ違うには道路幅に無理がある。

よくあることだ。 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 以前なら、お互いの運転手同士が瞬時に対向できる場所を決め、その地点に先についた車はできるだけ左側に車を寄せ一旦停止して対向車を待つ。

 対向車も同様に可能な限り左に寄せ、相手のドライバーに「ありがとう」と軽く合図をしてすれ違いを完了する。

 車に乗っていると、こういったことが何度となくごく普通の行為として行われていた。

 

 ところが近頃はこの当たり前の運転行為ができない人をよく見かける。

 すれ違い可能な場所に私が先に着いて待っている場合は問題ないが、対向車が先の場合が問題だ。

 少し広くなったその場所で待ってくれないのだ。

気にせず、構わず、どんどん突っ込んでくる。

 

 仕方なくすれ違い出来るところまでこちらがバックするのだが、すれ違うその瞬間に相手のドライバーの顔を見ると私を睨んでいるのだ。

「このヘタクソ!」声は聞こえないが確かにそう言っている。

 停止して待っているときも、相手の運転手は何の合図もしないで通り過ぎるか、或いはやはりこちらを睨んでいる、「ヘタクソ」。

やはり、くちびるがそう言っている。

 

 これは恐らく、道路の幅員や自分が運転する車の幅を分からずハンドルを持っているのだろう。

 

 また、片側1車線の2車線道路で前方からくる車の前を自転車が走っている。

自転車を追い越そうとセンターラインを大きくオーバーし、しかも加速して向かってくる。

 こちらは車を左に寄せスピードを落とす。

対向車はスピードをそのままに通り過ぎていくが、もちろん何の合図もない。

自転車に乗っている人も恐怖を感じたのではないだろうか。

 

 私も自転車に乗る機会が多いが、その時は多少遠回りでも車の通行量の少ない道路を選んで走っている。

 自転車に乗っていて、後ろから車が近づいてくると自転車を止めて通り過ぎるのを待って走るようにしている。

それは、ドライバーを信用していないからだ。

 

 他にも、昔からこんなだったかな、違うよなぁと感じることが多い。

 

 散歩中に横断歩道で立ってても、誰も止まってくれない、むしろスピードを上げて通り過ぎる車がある。

 雨の日など道路には大きな水たまりが至る所にある。

それでも自転車や歩行者を気にかけることもなく、大きく水を跳ねながら車は走り抜ける。

 

 教習所は何を教えて免許証を交付しているのだろう。

免許証を交付した数によって、車メーカーからの見返りがあるのだろうか。

そんなことはないだろうが、そう考えてしまう。

 

 「ヒヤッと体験」や愚痴を書けば、すぐに小説並みのボリュームになってしまいそうなので、まとめに取りかかろう。

 

 結局、行きつくところ現代人は他人への気配りや思いやりに欠けているのだろう。

 

 せめて子供が横断歩道で立ち止まっているときは、子供を優先させてあげようよ。

 子供が宝物であるのはいつの時代も変わっていないのだから。

 

 戦前までの小説に描かれている人間模様は、微かに覚えている私の子供の頃の想い出と似た風景がある。

 顔も知らないおっちゃん、おばちゃんによく叱られたけど、いつもどこかで誰かに見守られている安心感があった。

 

 ところが今は知らない人から物をもらってはいけません、知らない人についていってはいけません。

 かつては子供は地域の宝物とされて、みんなで育てようとする風土があった。

 

 それが戦後は教育を学校や社会から家庭に丸投げして、大人から教育を取り上げてしまった。

 ボール遊びをする子供を広場から締め出し、ときに夜の9時、10時まで塾に閉じ込められている子供たち。

 

 学校では中央教育審議会の作成したマニュアル通りの教育を進め、枠に収まらない子は問題児としてはじき出される。

 

 危険な遊びをする子供を注意すると、両親や近隣住民からマスコミまで顔を出し叩かれ、変人扱い、犯罪者扱いをされる。

 

 かつて地域の宝であった神様が、今は「触らぬ神に祟りなし」の神になってしまっている。

 

 「運転技術が‥‥」から大きく道を逸れてしまったが、このハンドルは元に戻せない。