Shaudow の『日本人と自然災害33 』 

 1934年9月21日~1943年9月10日 2019.07.10  H・A・笑童

 

人間は生まれてきてはいけなかったのだろうか

神は悲しみを与えるために私たちを創造したのだろうか‥‥

その答えは自然と接する日本人の生き方にあった

そして、やはり日本人は昔から日本人そのものであった

 日本人は、多くの自然災害を経験し学習することによって、自然と

共生することを学んだ。そしてその経験から得たものを後世に残して

いる。しかし、現代を生きる私たちはそれに気付いていない

 

1934年9月21日

昭和9年

室戸台風

死者3,066

1936年2月21日

昭和11年

近畿東部地震

M6.6 河内・大和

*現在の柏原市・藤井寺市・羽曳野市や奈良県王寺町が被害を受け、法隆寺や唐招提寺の土塀が壊れて基壇に亀裂が生じた。石材採掘や煙突修繕中の人など、死者は9人だった。

*5日後、2.26事件が勃発し斎藤実内相や高橋是清蔵相が殺害された。

1936年11月3日

昭和11年

宮城県沖地震

M7.4

1938年7月3日

昭和13年

阪神大水害

死者・行方不明者715

1943年3月4日

昭和18年

鳥取地震

午後7時13分 M6.2

1943年3月4日

昭和18年

鳥取地震

午後7時35分 M5.7

1943年3月5日

昭和18年

鳥取地震

午前4時50分 M6.2

*1941年12月の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まり、2年後ソロモン群島のガダルカナル島を日本軍が撤退した直後、鳥取で群発地震が発生し、市内で数軒の住家が倒れた。そして、その半年後…

1943年9月10日

昭和18年

鳥取地震

死者1,083

『鳥取県震災小誌』~鳥取市近郊は夏の余韻を残す暑い1日だった。太陽が西に沈む頃、勤めを終えた人たちは、夕食の準備が整いつつある我が家へ帰り始めた。午後5時36分、突如として地面が激しく揺れ始めた。「道を歩いていた者は、瞬時に地上に投げ出されている自分を見出した。立ち上がろうにも立てないのである。そこかしこの家々から起こる悲痛な叫び声に続いて、バラバラと身一つで逃げ出る人々。かくてこの瞬間に、家々の建物は、目の前で凄まじい土煙を立てて崩れていったのである」。

『大因伯』1943年10月号~積雪対策で屋根が重く、老朽化した建物が多かったことから圧死者が相次いだ。県立鳥取高等女学校では、夕食を済ませた21人の寮生が、それぞれの部屋で談笑していたが、激しい揺れで、轟音とともに寄宿舎が崩れ落ち、梁などの下敷きとなった7名が命を失った。

*死者1,083人・全壊家屋7,485軒にのぼる大惨事。特高警察による『鳥取県震災小誌』が唯一の被害記録だが、極秘扱いとされた。地震から3日後の『日本海新聞』1面には、ニューギニアのホポイ島での戦果が大きく取り上げられ、片隅に安藤紀三郎内務大臣が震災地を視察した記事が載る。