Shaudowのひとりごと~その28『祭の起源』 

             2018.11.06  HA・笑童

 

 「八百万の神」。

 

日本人は古来からすべてのものに神が宿ると考えていたようだ。

 

それは山・森・水・雨・風といった自然のみならず、生きとし生けるもの、あるいは人間が作り出した造形物まであらゆるものに神は宿ると考えていた。

 

 そのような時代を何千年、何万年と過ごしてきた日本に「仏教」という外来の神を崇拝する宗教が6世紀にやってきた。

 

もちろん私的にはその何百年も前から移入されては来ていたのだろうが、少なくとも公的には6世紀ということになっている。

 

 宗教のみならず政治経済、医療、土木建築、天文学などあらゆる分野において大陸は文明の提供国であり、我が国は進んでその学問や技術を取り入れるため、遣隋使そして遣唐使と送り込むことによってそれらを吸収していった。

 

 しかし、唐に大国としての陰りが見え始め、空海が帰国した第18回遣唐使を最後にこの事業は途絶えていたが、天台僧・円仁の強い希望もあって838(承和5)最後の遣唐使を決定したのは第54代仁明天皇(ニンミョウ)だった。

 

当時、新羅海賊のリスクもあり、文明国である唐への魅力を感じなくなっていた仁明は、逆に日本の優位性に自信を持ち始めていた。

 

 それは桓武の時代からの陰湿な政権闘争が落ち着きを取り戻しつつあって、弘仁文化と呼ばれるように大人の時代へと移行していったことによる。

 

このように平和な時代であったからこそ最澄・空海という傑出した僧が生まれ、日本仏教の船出を見ることが可能となったのである。

 

つまり、皇位継承争いを天皇や貴族たちの間で繰り返してきた桓武の時代から、仁明の時代は天皇の譲位を一直線に継承していく万世一系の安定した国造りへと変わっていったのである。

 

他の近隣諸国にはないこの国造りこそ過去の天皇が求めてきたものであるとともに政治上においては安定した国民生活を約束するものであった。

 

神の格付けをする

 

 そこで次に仁明天皇が注目したのは神話であった。

 

ご存知のように現在の日本神話は天照大神を皇祖神とするために天武天皇の時代に組み直され、後に著されることとなった『古事記』『日本書紀』の物語が原型とされている。

 

そのような時代背景の中、839年に帰国の途にあった最後の遣唐使船が戦闘に巻き込まれるという事件に遭遇した。

 

その難事を救ったのが、大和王朝の北辺を護る大物忌神を祀っている鳥海山の噴火であったことが、ますます仁明を神国日本へと歩を進めさせることとなる。

 

 849年、仁明天皇の40歳の祝賀会において「御代御代に相承襲(アイウケカサネ)て、皇(スメラ)ごとに現人神(アラヒトガミ)と成り給ふ」と謡われた長歌が献上された。

 

近隣諸国に比べ国の安寧を願い日本王朝の永続を歌ったこの長歌は、後に「わが君は千世に八千世にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と古今和歌集に謡われ、そして、現代の日本国歌として永く歌い継がれてきた。

 

(天皇と国家・国民の平和を願う歌が近年は軍国主義につながるとされるが、武器を持って戦えと歌う中国や米国の国歌に比べてはるかに平和的だと思うのだが)

 

 仁明が思い描いた神の世界は文徳天皇を経て次の清和天皇に受け継がれ、形となって現れることになる。

 

それは859年(貞観元年)、それぞれに違った祭神を祀る全国の267社の神社に階級を与え序列化したのであった。

 

つまり、人間が神のランク付けをしたのである。

 

仏教にみる如来、菩薩、天などというのは仏教の教義によって分けられたもので格付けを示したものではない。

 

世界にはヒンドゥー教・儒教・道教などまだまだ多くの多神教があるが、神そのものを数字でランク付けしている宗教は他に例をみない。

 

 「位階」とは本来、律令制に基づき官人を序列化したもので、明治・大正・昭和と改変を繰り返しつつ今に至っており、現代も春、秋の叙勲などで多くの公務員が選ばれるのもこの名残りだが、この人臣への位階を神に適用したのである。

 

 その最高位はもちろん天皇の皇祖神である天照大神であり、皇祖神を祀る伊勢神宮は位階を超越した存在とされている。

 

天照大神が最高神となったために、その最高神を左目から創造したとされる父の伊邪那岐(イザナギ)は勲八等から正一位に叙位され、母の伊邪那美(イザナミ)も従五位に叙位された。

 

しかし、逆に『古事記』や『日本書紀』では主祭神とされた高御産巣日神(タカミムスビノカミ)や神産巣日神(カミムスビニカミ)は、超越した神として無位であったのが従一位に叙位されたため、それまで得ていた超越的な位置をはく奪され、伊佐奈岐命よりも格下げされるという不思議な事態になってしまった。

 

日本人はまた新しい神を創造する

 

神を序列化した日本人のみならず、すべての民族に共通していえることは自然現象を神格化する歴史を重ねてきたことだ。

 

古代人にとって暗闇は大きな恐怖であり、そこに太陽神が存在したように自然の圧倒的な力に直面した時、その自然に対して恐れを抱くことで、それを新しい神として誕生させることになる。

 

地震や噴火、雷などを日常的に経験している地域の民族は、当然そこに多くの神々を誕生させている。

 

そのような自然災害に直面しない欧米の人々にとっては雷の絶対的な力を恐れ主祭神としているが、日本でも雷は地震・噴火と共に三位一体の恐怖と捉え、中でも雷鳴を神の怒りとし最も恐ろしいものと感じていた。

 

 9世紀末期、醍醐天皇の御代、紫宸殿に落雷があったのを契機に雷鳴陣(カンナリノジン)なるものが誕生した。

 

雷が鳴ると左右近衛の大将・中将・少将や将監以下数名が弓矢や武具を備えて天皇の回りに集まり、陣を整え、矢を装填せずに弓の弦を弾くという儀式(雷鳴神)を雷除けの呪術として行っていたという。

 

 しかし、この儀式そのものは9世紀初めにも存在していたらしいことは『日本後紀』にみられる通りである。

 

実は8世紀中頃~10世紀中頃にかけての約200年間、地球規模での温暖化もあり日本列島は東アジアを含めて未曽有の自然災害を経験した時期でもあった。

 

 そしてこの時期の自然災害は京都という地理的な要因を加え、疫病や飢饉などの二次的災害を引き起こす新しい神々を創造したのであった。

 

その神は祟り神及び疫神という名前とともに宮廷のみならず、一般大衆を巻き込んで日本社会の大きな流行となっていったのである。

 

 仁明の頃は一直線に無理なく皇位継承されていたことは先に触れたが、その少し前、桓武天皇の頃は非常におどろおどろしたものであった。

 

桓武の命で長岡京遷都を推進していた造営責任者の藤原種継(タネツグ)が暗殺される事件があった。

 

犯人として逮捕された大伴継人(ツグヒト)が反桓武派の大伴家持(ヤカモチ)と早良親王(サワラシンノウ)による事件と自白したため、天皇は皇太子である早良親王を長岡京乙訓寺に幽閉し、淡路島への流罪を決定した。

 

早良親王とは、桓武天皇の弟で政治手腕も高く桓武の即位とともに皇太子となっていたが、長岡京造営に反対する南都勢力との繋がりが強く、桓武の実子・安殿親王(アテ)への皇位継承もあって、この事件を契機に桓武天皇は実弟を排除したのである。

 

 早良親王は絶食を続け無実を訴えたが叶わず、流罪の途中で絶命したが遺体はそのまま淡路島まで送られた。

 

しかし、その後桓武天皇の周りで病死や疫病が流行し、自然の脅威としては長岡京で地震が相次ぎ、富士・霧島の噴火、極めつけは8003月から1か月間も続いた富士大噴火があった。

 

当時の最高学術機関である陰陽寮が早良親王の怨霊によるものという結論を下したことによって桓武天皇は無実を認め、故早良親王に崇道天皇(スドウ)を追号したが自然の猛威は収まることはなかった。

 

 また、桓武天皇の第3皇子・伊予親王は父の信任も厚かったが、覇権争いをする藤原諸家の争いに巻き込まれ、謀反の首謀者にされてしまった。

 

実母・藤原吉子とともに明日香村川原寺に幽閉され絶食を余儀なくされた母子は、毒を飲んで自害した。

 

やはり後に無実が判明し法要が営まれたとき、空海は願文(追悼文)を読んでいる。

 

なお、この頃の京都は間段なく群発地震が続いており、現代でこそ京都は地震の少ないところと思われているようだが、それは錯覚に過ぎないことを歴史は語っている。

 

 政治的には落ち着きを見せた仁明から文徳、清和と天皇は代わっても自然の怒りはますますその激しさを増していった。

 

富士の噴火の後は出羽鳥海山(3)、阿蘇山(2)、伊豆、伊豆神津島、伊豆七島、陸奥鳴子、豊後鶴見岳と噴火が続き、地震はM 7.0クラスが上野・武蔵、信濃、秋田、伊豆、出羽、出雲、越中・越後などとあり、京都に至っては年に10回程度の地震がほぼ毎年続くというありさまであった。

 

なかでも、851年から863年までは大きな揺れも数多くあり、855年には東大寺大仏の仏頭が落下、856年には年に24回の地震が起きるなど、宮中のみならず都の住民にとっても怨霊、祟りの恐怖は極限状態にあったことは想像に難くない。

 

 京都は、862年に年19回の揺れを感じ、111回、12月には2回の大きな揺れに見舞われた。

 

そして翌863年、相変わらず地震が続く中、2月には太陽が光を失って白くなり、月が水銀のように赤くなるという異常現象に襲われたのであった。

 

民衆を苦しめたのは地震や噴火だけではなく、温暖化に伴う旱魃・豪雨によって和泉国を含む五畿七道の国々が毎年のように飢饉に襲われ、861年には血屎(チクソ=赤痢)、862年から863年にかけて咳逆病(ガイギャクビョウ=インフルエンザ)の流行で多くの住民が亡くなっていった。

 

 そこで朝廷は、863520日に京都・神泉苑で先に述べた早良親王、伊予親王・藤原吉子母子などの怨霊・悪霊を慰めるため、あるいは疫病を鎮めるために、貴族も民衆も一緒に参加できる儀式(御霊会)を執り行った。

 

これはやはり先述した全国の神社267社の格付けを行った4年後のことでもあった。

 

それは普段は貴族たちの遊興の場であったが広く一般に開放し、僧侶の読経や歌舞演劇を披露して民衆の日頃の恐怖を和らげ、一時の楽しみを提供するものであった。

 

この儀式は瞬く間に各地に広がり、翌年の5月には全国で御霊会(ゴリョウエ)が催されることとなった。つまり、御霊信仰の誕生である。

 

 しかし、御霊会の開催も地震や噴火を抑えることはできず、むしろ勢いを増して日本列島に襲いかかってきた。

 

8645月には現在の富士五湖を作った史上最大の富士火山噴火が起こった。

 

そして、このあと、三陸沖であの地震が起こったのである。

 

869(貞観11)526日、

 

「‥‥激しい波と高潮がやってきて遡り‥‥海を離れること数百里の距離まで冠水した様子は、広々としてその果てを区別することが出来ない。原野や道路はすべて青海原のようになってしまった。船に乗る余裕もなく、山に登る時間もなく、その中で、溺死するものが千余人にも及んだ‥‥

 

と、菅原道真が編纂した『類聚国史』に当時の様子が記されている貞観地震であった。

 

 77日には奈良で三陸の誘発地震が起こり、同じく14日には場所は九州と離れているがやはり三陸の誘発地震であることに疑いのないM 7.0の肥後地震が起こった。

 

その後も甚大な被害をもたらした自然は勢いを増し続け、915826日には1991年の雲仙火砕流の3,000倍という大きさで十和田湖を生んだ日本国最大の噴火が発生した。

 

そして946年には十和田湖とほぼ同じ緯度にある韓半島の白頭山が紀元後世界最大級の噴火を起こし、約200年にわたる地震の活発期の終焉を迎えることとなったのだった。

 

新しい神の創造は新しい祭りを創造する

 

 京都・神泉苑で催された御霊会は、瞬く間に全国各地に広がっていった。

 

それは地震の活発期にあったこの時期、毎年のように各地で起きる巨大地震・噴火・台風、それに温暖化に伴う豪雨被害などの真っただ中に暮らす人々にとって、今、まさに地震の活発期に入ったとされる平成最後の私たちにも想像できない環境の中にあったのだろう。

 

異常気象は旱魃を生み、地震や噴火は飢饉そして疫病を生むという悪循環の中で、自然の原理に接することのない彼らにとって最新の学術会議である陰陽寮の出す「怨霊と祟り」という回答に疑いすら持ちえなかった。

 

ましてや、京都は、丹波山地からの「丹波太郎」、奈良盆地からの「山城次郎」、琵琶湖からの「比叡三郎」、山科盆地からの「桃山四郎」に囲まれた落雷の多い地であり、また、歴史が証明するように京都は地震の多い土地であった。

 

 桓武天皇はそのような土地・京都に都を開いたのである。

 

中国の風水は中国にあって能力を発揮するものであり、自然災害の多い日本では無理があったのだろう。

 

しかし、桓武の時代はそれを批判する材料をもっていない。

 

 863年朝廷の肝いりで挙行された御霊会だが、翌年、儀式を悪用し米の売買などで利益を得ようとする徒党がいると、中止の命令が朝廷から出された。

 

ところが朝廷の思惑は別にあった。

 

それは御霊信仰にかかわるすべてのイニシアティヴを民衆が握ることを恐れたのであった。

 

その理由を推察できる、平安時代末期のものとされる一通の文書が東大寺に所蔵されている。

 

その文書は、租税の徴収に抵抗する百姓たちが遺したもので、「喚き太鼓を打ち、呪ひまゐらせ候て、政所(マンドコロ)を焼かむ」と書かれているという。つまり怨霊を味方につけて中央政権に抵抗したのである。

 

 政府の作った御霊会だが、このようにしてイニシアティヴは民衆の手に委ねられることになっていくのだが、それを大きな力で後押しする事件が10世紀初めに起こった。

 

宇多天皇の譲位をうけて即位した第1皇子の醍醐天皇は、父同様に菅原道真を重用していたが、藤原時平の謀りで道真は太宰府に左遷され、都に戻ることなくその地で一生を終えた。

 

その後、醍醐の皇太子や皇孫が相次いで死去し、極めつけは930年内裏の清涼殿を雷電が直撃したのを機に、醍醐天皇は病に陥り死去することになったのだが、一連の出来事はすべて菅原道真の怨霊による祟りであるとの噂は都から地方に広がっていった。

 

そのため、北野に天満宮が建てられ、全国に天神宮が創建されることによって、民間の御霊信仰を後押ししていった。

 

一度、全国に飛び火した御霊会を、権力によって一時的に禁止することはできても、それを永遠に閉じ込めることはできない。

 

それぞれの地域において独自の風俗を加味して、独自の神を誕生させ、そして、その神は地域の怨霊や祟り神を抱え込み、中央国家に対抗できる勢力として変化していくのである。

 

 御霊会によって生まれた怨霊崇拝や祟り神への崇拝は、中央にあっては僧侶の読経があるが地方には国家資格を持っていない僧侶、つまり遊行僧がその役割を担うことになる。

 

しかし、この遊行僧こそ経典に縛られた教えを説く人たちではなく、地域に密着し、個々人の悩みに接し、それを吸い上げ、ともに解決に向かうといういわば司法・行政・立法のよき相談相手でもあったのだろう。資格はないが経験と実績は申し分なかった。

 

 中央には皇位継承に伴う怨霊や祟りがあったのだろうが、地方にはそれぞれに違った怨霊や悪霊を誕生させていた。

 

地方の村はその怨霊や祟り神を祀り、慰め、鎮めるために相撲や芸事、舞や謡いなど、土地それぞれの環境を包み込んだものを考え創作していった。

 

これこそが現代に続く各地の祭りの誕生なのである。

 

そして祭は誕生する

 

 祭りは土地柄によってその形態を変化させていった。

 

祇園祭は祇園御霊会がその発祥であることは有名だが、やはり貴族の土地であり、荒っぽい祭りは敬遠され、雅な祭りが好まれる。

 

しかし、地方にはユニークな祭りが、現代においてもその姿や形をみせてくれている。

 

 俗に荒っぽい祭りも全国でみられる。

 

これは怨霊を鎮め、慰めることによって良い霊に変えようとする祭りである。

 

つまり、霊魂には和御魂(ニギミタマ)と荒御魂(アラミタマ)があるといわれている。

 

和御魂は農耕社会に太陽や雨など恵みをもたらし、荒御魂は地震や噴火などの自然災害の他に疫病や戦争を引き起こすなど祟りをなす霊である。

 

しかし、荒御魂はその荒々しさゆえに凄まじい力を内に秘めており、慰めることによってより大きな和御魂に変えることができるとされている。

 

伊勢神宮においても荒御魂は、内宮では荒祭宮(アラマツリノミヤ)、外宮では多賀宮(タカノミヤ)に祀られ、尊い神としての扱いを受けているのもその故である。

 

 京都・八坂神社の祭神でもある素戔嗚尊はその和御魂と荒御魂の両方の性格をもった神とされている。

 

また、地震神でもある素戔嗚尊は根の国に住み穢の神であるため荒御魂とされるが、反対にその穢を防御する祓の神でもあるので和御魂ともされる。

 

普遍宗教である仏教の仏は正覚の身であり穢は存在しないが、仏を護る天や明王などはやはり荒御魂と和御魂の二重性を持っていると考えることができる。

 

つまり、悟りを開いた如来は別として多くの神は二重性をもっているということであり、祀り方や接し方によって2つの性格が現れるということになる。

 

 神である神輿を上下に揺さぶったり、時にはぶつけ合ったりして、乱暴な祭りをすると感じる人もいるだろう。

 

しかし、荒御魂ゆえに少々乱暴なほうが怨霊は喜んでくれるという考えがあり、喧嘩祭りなど全国では荒々しい祭りが数多いのもそういった所以であろう。

 

 泉州のだんじり祭もその系統に属するものだ。

 

質素倹約が常であった時代に、和泉の地に古くからあった怨霊や悪霊を抱え込み慰めるために、華麗で豪華なだんじりを造ることが許され、あるいは住民たちが中央権力から護るべきものを御霊会として、神社として、共同体の祭礼として、だんじりを曳行し主張しているのだ。

 

 暑い夏が終わると泉州に祭の季節が訪れる。

 

一年の間に積もった怨霊を取り除いてやらねばならない時がやってきたのだ。

 

だんじりが人と郷土を豊かにする宝物だであることはみんなが知っている。

 

 さあ、小屋で眠っていただんじりを祭礼の日に小屋の扉を開け、着飾った姿で太陽のもとに披露する。

 

そして思いっきり走らせてあげよう。主役は紛れもなくだんじりなのだ。

 

 このだんじり祭が五穀豊穣を願う「民」の祭りであることに異を唱えるつもりは毛頭ない。

 

祇園祭がそうであるように、祭りは歴史の中で装いを変えることもある。

 

過去を強要せず、豊かな社会を創り、町を構成する一員として生き続けていければそれでいいと思っている。

 

しかし、主役である〝だんじり〟を脇に置いて主役に居座ろうとする人たちの存在や、神であるだんじりを汚す人たちを認めてはいけない。

 

だんじりは荒御魂であり和御魂であり、神なのだ。

 

鳴り物はだんじりを華やかに魅せるもの、纏はだんじりの曳行路を浄めるものだ。

 

そして荒々しいと評されるその曳行を含めて伝統文化なのである。

 

危険と背中合わせだといわれるがそうではない。

 

そこに参加する者たちの良識によって危険は排除することができるはずだ。