先日20代のお客様とお話していて、

今の若い子はブランド物とかあんまり興味ないよねという話になり、

あんまりそういう見栄をはる子はいないかな~、若い子はコスパ・タイパですよ、と言われた。

 

そうか、コスパ・タイパか、、、と何とも言えない気持ちになった。

つまりは全く無駄がなく、余白のない生活ということか。

 

わからなくもない。

 

私は、社会に出て、自分の時間が持てなくなった頃から

つねに「時間が勿体ない」と考えてしまうタイパ厨になった。

 

ひとりの時間が好きなのも相まって、

誰かと同じ電車で帰るときに「この時間、本を読めたのになぁ」とか、

中身がなく騒ぐだけの飲み会に付き合っている時「この時間で、映画を見れたなぁ」とか考えてしまったり、

読書が大好きなのだが、「どうせ読むなら仕事や人生に役立つ知識を入れたい」と考えてしまって、

大好きだった小説が読めなくなり、自己啓発本やハウツー本ばかり読むようになったし、

ファンタジーの世界に浸っても何にもならないとアニメも見なくなった。

 

幼少期から、大学生までは、無駄を誰よりも愛した。

 

日が沈むころに庭にイスを持ち出して、夕日が沈むのをただ座って眺める。

雪のつもる空気が澄んだ夜に、星を見るためだけに散歩に出る。

平安時代の草書体に憧れて、練習してみたり、

全く使用しないロシア語やイタリア語の勉強をしてみたり、

読経に憧れて、般若心経を全文覚えたり、

興味の赴くままに無駄の限りを尽くした。

 

数年前に、日常にすっかり疲れて、熱海に一人旅に出た時、

ひさびさに、フィクション小説を読んでみようと思い、

吉本ばなな氏の「どんぐり姉妹」を携えた。

 

ひさしぶりの感覚で夢中で読んだ。

 

はりつめた心に文字がじんわり染みて私は現実世界からフィクションの世界へと完全に没入し、思った。

 

ああ、なんで今までこれをしてこなかったんだろうと。

 

どんぐり姉妹の中にも、そのような余白についての一文がある、

「みんなたわいない会話を交わしたくてしかたないのに、一人暮らしでできなかったり、家族の生活時間帯がばらばらだったり、意味あることだけを話そうとして、疲れていたり。人々はたわいない会話がどんなに命を支えているかに無自覚すぎるのだ。」

 

 

 

 

私は過去のことを人よりも忘れてしまう。

 

遠足とか修学旅行とかそういったイベントのことはちっとも覚えてなくて、

小学校の帰り道に道端に咲いていたタンポポの事や、

高校生の時に親友と夕日に向かって漕いだ自転車からの景色や、

誰かと交わした何気ない会話、そういうものだけなぜか覚えている。

 

これらはすべて余白であって、無駄である。

 

ただ、人生は無駄の連続で、それがあるからこそ美しいのだった、と今は思う。

 

このブログだって、書くことに意味はない。

ただの時間の浪費である。

 

ただこの無駄な文章を書き綴ることは私の癒しであって、楽しみだ。

 

きっといつか今の20代の子達も、

人生はタイパではないと、気付くときがくるのかなぁと、ぼんやり思うなどした。