Remember who you are.

Remember who you are.

摂食障害からの解放

 

生きることと罪悪感については、coccoがきっと分かってくれる。

夢と孤独と、人恋しさについては、ヒグチアイが分かってくれる。

人を思うことと希望と、瞬間の愛おしさは、洋次郎が分かってくれる。

 

なんて冒頭から、音楽の偏愛丸出しの私です。

 

今日は、書きたい日。

この後何秒続くかわからない執筆欲求が、冷めるまで書きます。

 

とか言いながら、本当は提出期限の過ぎた論文抄録が未だに1文字も書けておらず、

明日のゼミまでに書けるかどうかも定かではない不安を落ち着かせようと、

とりあえずタイピングしたくなっているだけなんだけど。

 

 

 

必修という言葉だけでは、私は駆り立てられない。

駆り立てられないと、何も思い浮かばない。進まない。停滞。むしろ後退。

 

 

心理学の授業で得た、「モラトリアム」という言葉は、

私を説明するのにぴったりだなと、初見で思った。

 

ありがたい言葉。モラトリアムだと言っておけば、説明がついてしまい、

若いね~とどう受け取ればいいのかもわからないまま、とりあえず話は進む。

 

 

考えすぎる、まじめすぎる、いちいち引っかかる自分の特性を鬱陶しく思う。

やることをやればそれで済む話、パズルはピースをはめていけば完成するように。

 

ピースについてあれこれ言う人は少ないだろう。個々の形がどうだとか、どうしてこんな形をしているのかとか、

あえて違うところに嵌めたらどうなるのかとか、

 

分かり切っていることについて、考えたり話したりするのは、時間の無駄か。

 

 

時間を持て余しているのだと思う。

時間について考えることができるのは、まぎれもなく、時間が「ある」からだ、

というのは先日行った美術館で出会った言葉。

 

時間がある=余裕がある

とは限らない。時間はあるけれど、余裕がない時だってある。

 

そしてついてくる、何とも言えない罪悪感。

大学生であることの罪悪感を私はずっと抱いている。

 

そもそも社会の何の役にも立たない。これから社会に出ていくための準備期間であることは理解しているが、

人生の夏休みだと言って、楽しみ切れない何かがある。

 

親に対して迷惑をかけているだけ。学費も払ってもらっている。

きっと、自分で決めて何かをやっていく人は、学費を自分で稼いで何とかやりくりしようとするだろうし、

実際そういう人も見ている。

 

比較をするのが得意だ。私は、いつだって口ばっかりだ。

 

迷惑をかけたくないと言いながら、私はバイトもろくにせずタイピングをする。

人生の夏休みとか言えないとか言いながら、南アフリカに行って韓国に行って、日本中行きまくって、

休学と留年をして、6年在学確定だ。

 

卒業したくない、なんて言えたもんじゃない。。

 

 

私はずっとそうだ。ずっと何かに文句ばかりを言っているだけだ。

「摂食障害」という言葉で、自分を守っていただけだ。モラトリアムだって、同じようなもの。

 

自分で自分を説明できない。どうしてこうなっているのか、これからの話をされるのが、

追いつけない。

 

ある教授に

「過程をすっ飛ばして、卒業だけにこだわるから面倒なことになっているのでは?」と、言われた。

 

そういう意見だ。私が、ハマる実習先を見つけられずに先送りにしまくっているが上に、

 

”もう好きにしたいです”

 

という自分勝手炸裂なメッセージを送ったせいだ。

 

私が悪い。私が、私を守りすぎている。私を大事にしすぎている。

 

 

内側では、いったい何が起こっているのかよくわかっているのに。

どうしたいのか、わかっているのに。言えないのだ。

 

 

世界が全部敵になると思いこんでいる。大切な人を傷つけて、理解されず、嫌われて、

孤独になるのだと思い込んでいる。

 

怖い、こわい。

 

そんな時は、病気が守ってくれる。できない、やりたくないといえるのは、病気があったからだ。

 

本当は、「こうしたい」と言いたいのに。

 

 

私は、学校が嫌いだと言っている。不登校万歳だ。

そう、

私は、学生の良さをとことん使おうとしているのだ。逮捕されるかな。

 

本当に最低だ。最低だ。最低だ。サイテイダヨ。

 

 

 

生きる価値だとか、生かされている事実だとか、

自分一人で苦しいとか、病んでるとか、でもいつだってみんながいてくれたとか、

あの子今頃元気かなってふと思うこととか、

ケープタウン行きたいとか、バイクの免許取ろうかなでも教習の先生と合わないなとか、

貯金とか、桃の季節とセミの声とか、プレイリストに飽きたから新しい曲に出会いたいだとか、

 

そういうこと全部どうでもよくなってみたりするんだけど、全部一瞬で、わたしの日常だ。

 

 

こういうことを考えたり書いたりすることが、何の意味もないし、何の役にも立たないし、だれにも読まれないし、

ゴミ箱のごみの中に紛れちゃった消しゴムについたカス程度にしかならないかもしれないけど、

 

 

ここに記されている2000文字が、わたしであったのだと、

 

 

ちゃんと、忘れられますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し前のお話。

 

5月に初めてソロでダンスを踊った。

 

出演してみない?とお話をもらってから、最初に出てきた気持ちはシンプルに

「踊りたい!」

 

そしてそれとほぼ同時に叫ばれた内側の声。

”お前にできるわけないじゃん。”

 

たった1秒だけだった。私が自分の気持ちをまっすぐに出せたのは。

曇りのない表情で、これから起きることに”楽しみ”という感情だけでいられたのは。

 

口では「出たいです」と言っている。

口では「挑戦できてうれしいです」と言っている。

口では「楽しみです」と言っている。

 

頭の中はさ、

 

怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い

 

 

 

挑戦者たるもの、わくわくしなくちゃいけないはずなのに、

チャンスに対してビビり散らかしている私がいる。

 

 

それでも、強がっている。強がって笑っている。

かっこいいねって言ってくれるのが、嬉しい。恐怖に立ち向かっていくのが、

 

私の中のヒーローだ。

 

 

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好奇心があって、やりたいことは全部やりたいと思っている、

そういう私もわたしの一部としてある。OK。

 

人の目が怖くて、失敗するのが嫌で、隠れていたい私がいる。

一人じゃ不安で、隣に誰かいてほしいと泣きつきたい私がいる。

そういう私はわたしの一部としては、

 

受け入れたくない。(笑)

 

 

ニコニコして、私やりますって手を挙げている私に対して、

 

マジで何言ってんの!?怖すぎるから本当に目立つことしないで!!泣怒

 

 

5月の私は、このビビりな私を無視した。

聞こえていないふりをした。

 

以下、両極端の視点からお話を聞いてみようと思います。

 

 

〈太陽sideより〉

 

私は挑戦者。私は、自分が踊りたいと思ったから、できることを精いっぱいやるだけなんだ。

 

1か月と少しの間、私は試行錯誤しながらも毎日毎日、歩いて、思考して、踊って、確認して、思考して、踊って、踊って、

 

 

不安の声を打ち消すように、とにかく毎日動き続けた。

”大丈夫。私は、ちゃんとやれる”

 

嫌いじゃなかった。自分が踊りたい曲を選曲して、ダンスを通して自己表現ができることが、

そのこと自体初めてで、創作ダンスに対する興味も深まってはいた。

 

 

でも、止まることができない。

 

 

自分の中での分離が、どんどん広がっている感覚にも気づいていた。

でも、それについてとやかく言うことはしなかった。

 

言ったところで何も変わらない。

相談なんてしても、結局誰かに大丈夫だよって言ってほしいだけ。

 

私は挑戦者。私は強いのだ。

言ったことは最後まで成し遂げなくちゃいけない。

 

 

みんなが楽しみにしている。私だって踊りたい。

 

こんなチャンスをもらえるだけで、すごいことなんだ。

感謝しなくちゃ。楽しまなくちゃ。笑わなくちゃ。わくわくしなくちゃ。

 

 

 

私はずっと、こうやって乗り越えてきたんだ。

 

 

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〈月sideより〉

 

ありえない。

本当に、何勝手に話し進めちゃってんのよ。

 

ダンスなんて、もっとうまい人たくさんいるし他の出演者の方と並んで出るなんて、

何考えてんの。

無理に決まってる。やりたくない。やめたい。もう断ってほしい。

 

人の目にさらされるなんて、そんな危険な場所にわざわざ行こうとしないでほしい。

出しゃばってるとかキモイ。

 

どうすんのよ、笑われて終わりでしょ。

 

恥ずかしいし、傷つきたくないし、意味わかんないし、とにかく怖いんだよ。

 

 

 

見てくれる人に感動をとか、何様のつもり。何かを感じてもらいたいとか、刺激になりたいとか、

どの口が言ってるの。

 

傷つきたくないとか、保身ばっかりのお前が、

偽りばかり並べるお前が、

 

表現なんてする価値ない。

 

 

あと、わたしのこと無視するから嫌い。失敗すればいいのに。

 

 

 

 

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踊りが終了し、ほっとしたのか、今までにないくらいのヘルペスができてそのまま体調を崩し、

1か月は何もできないような状態にまでになった。

 

どんだけやねん。(笑)

 

 

一発目にして悟りました。このやり方は身が持たんのだと。

 

今回の体験は本当に不思議なもので、

成功を望んでいる太陽の私と、

失敗を望んでいる月の私がいた。

 

 

5月のことを通して、

 

やりたいわたしとやりたくないわたしが両方いることを、受容したいと思うようになった。

 

体調を崩しているあいだ、ずっと聞こえていたのが、

「ほら見ろ。私を無視するからこうなるんだ」

 

なんかごめんってなる。同じ私のはずなのに、ね。

 

無視して、ごめんなさい。

 

 

 

 

 

次からは、せめて喧嘩できるようになりたいと思います。

 

 

 

 

ずっと続けること、

言ったことを成し遂げること、

最後まで諦めないこと、

やり遂げるということ。

 

 

かっこいいと思います。すごく大変なことだし、それができることは簡単なことじゃない。

努力を続けられる人間は、本当に少ないと思うから。

 

私は、スポーツをずっとやってきた。

陸上も、小中高大と、10年以上もの間続けた。

 

誰かに言われたからとかではなく、ただひたすらに走り続けていたら、

ここまできてしまったという感じでしょうか。

 

 

辞めるという選択肢が、そもそもなかったから、

すごいと言う感覚にもならない。

 

だから、ずっとそういう感じだった。

でも、続けられるということは、私の努力以上に、

周りの環境や、その他たくさんの要因が相互作用して、

一人でやってきたわけではないです。

 

やめてしまうことが「悪いことだ」という認識を、私は持ちたくないのに

多分ものすごく、持ってしまっているのだと気付かされる出来事が重なっています。

 

「やめたい」と思うこと自体、納得がいかない。

甘えているんだと思う。

 

極端な人間だから、やめるくらいなら始めなければ良かったとか、

やらない方が良かっただとか、

あるかないか、やるかやらないか、0か100か。

 

中途半端なものを見ると、自分のことが大嫌いになる。

 

中途半端な人間だと思う。私は、いつまで経っても成し遂げられない。

恥ずかしい人間だと思う。私は、言葉ばかりを並べて行動に移せていない。

 

この胸の苦しさは、どう足掻いても消えてくれないみたいです。

 

許せるのか。私は、やめる人間のことも、やめてしまうことも、やめたいと思っている自分自身のことも。

 

ずっとやめたかった。ずっとやめたかった。ずっとやめたかった。

 

何をそんなにやめたいのでしょうか?

 

 

陸上?大学?バイト?自分?

 

私だってやめたいのに、どうしてそんなに簡単に離れていけるの?

どうして、私を一人にするの?

どうして、、、。

 

 

吐きそうなくらい、何かを許せない。誰かを許せない。

 

殴ってやりたいのは、一体誰を殴りたいの。

 

人は人の人生、私が口出しできるほど責任を負うこともできない。

引き止めようとしても、結局は行ってしまう人。

 

伝えたいのに、伝えられない。届けたいのに、届けられない。

 

ずるいよ。

 

 

"この道一筋30年"

職人のような人たちがいる。やっぱりかっこいい。

 

人生の中で、これしかないという物事に出会えることが、

羨ましくなってしまう。

 

ふざけるな、甘えるな、お前のような人間が何かを続けられる訳がない。

嫌になったからって一度辞めた人間が、何かを成し遂げられる訳がない。

 

 

許してしまっていいのだろか。自由奔放にやっている自分を。

飽き性なんだ。居場所を探してしまう。

 

いつまで経っても落ち着けない私は、何を求めて走り続ける?

 

 

辞めてしまうんだ。そうなんだ。次にやりたいことも決まってない。

そんなのただの逃げじゃないのか。

 

 

辞めたい。逃げたい。捨ててしまいたい。

 

 

 

こんな自分、大っ嫌いなんだ。