あらすじ
「明日が怖いものではなく楽しみになったのは、あの日からだよ」今でもふと思う。あの数年はなんだったのだろうかと。不自由で息苦しかった毎日。家で過ごすことが最善だとされていたあの期間。多くの人から当たり前にあるはずのものを奪っていったであろう時代。それでも、あの日々が連れてきてくれたもの、与えてくれたものが確かにあった。


ひと言
3年以上にも及ぶコロナ禍からの出口が少しずつ見えてきた今日。この3年を無駄にすることのない、明日につながるこういう作品がこれからもっともっと増えてくることを心から祈っています。著者よりと書かれた文章を以下に引用します。
何かと制限され思いどおりに過ごせない毎日を、大人も子どもも、誰しもが困難を抱えながら進んできたと思います。そして、これから、また違う日々に向かわないといけない中で、ほんの少しでも明るいものを差し出せる物語になれれば。そう思っています。


二回目の登校日。算数の授業中、先生の説明をぼんやりと聞きながら机の中でがさがさになった手をさすっていると、何かが指先に当たった。紙だ。一センチ四方くらいに折られた紙。なんだろう。先生に見つからないようにそっと取り出して開けてみると、そこには、
音楽とか体育とかすればいいのに。学校来てもつまんないな
と小さな字で書かれていた。手紙だ。きっと、分散登校の違うグループの誰かが書いたのだ。私と違う曜日に、この席に座るこのクラスの誰か。手紙とはいえ、教室の中での、最初の会話。三年生になって、友達とマスク越しのあいさつ以外の言葉を交わすのは初めてだ。私の中に大きな気持ちが押し寄せてくる。ああ、こうやって話せるんだ。同じクラスの同じ年の友達と。誰かの手を通して書かれた生の言葉を、私は受け取ったんだ。短いメッセージに、驚くくらい心が弾む。先生は黒板にひたすら問題を書いている。今なら大丈夫。私はノートを小さく破って、メッセ ージを書いた。
休み時間がほしい! トイレに行くだけじゃなく運動場に行けるやつ
名前を記そうかと思ったけど、見つかって叱られるのも嫌だし、相手も名前を書いていなかったからやめておいた。休み時間に運動場に行きたい。それを書いただけで叱られるかもと不安になるなんて、どこかおかしいよな。と少し思ったけど、しかたない。私たちが帰った後、先生は机を消毒するだろう。その先生の目から逃れられるよう、小さく小さく手紙を折りたたみ、届いてくれますようにと願いを込めて机の奥に押しこんだ。その日から次の登校日が待ちきれなかった。私か通うのは、火曜日と金曜日。もう一つのグループは月曜日と木曜日だ。今日は木曜日。今ごろ、あの席に座っている子は手紙を読んでくれているだろうか。返事を書いてくれるといいな。誰かわからないクラスメートとの小さな会話は、私のどんよりしかけていた日々に、
すきっとした日差しをもたらしてくれた。
(第一章)

お母さんに聞かれたからか、私は手紙相手の名前を知りたいと思った。心の中で勝手に手紙ちゃんと呼んでいるけど、名前を聞きたい。名前なんてなんだっていいけど、わかったほうが近づけた感じがするし、心の中でだって呼びやすい。これだけやり取りをして、先生にも見つかっていないのだ。名前を書いてももう大丈夫じゃないだろうか。私は、次の手紙に、
ねえ。そろそろ名前教えてもらってもいいかな? 1、2年同じクラスだったりして
と書いた。自分が先に名乗ろうかと思ったけど、もし名前を教え合うのはやめようと言われたら困るから、相手の返事を待つことにした。三日後の手紙には、
いいなって思ったけど、会える日まで誰か秘密にしておくってどうだろ? 全員登校がOKになった最初の日の朝、校門のチューリップ花だん前で待ち合わせしよう!
と書かれていた。私は手紙を読んですぐに「最高!」と手をたたきたくなった。
(第一章)

「まあな。でもさ、岸間さんからもらったのはパンだけじゃないよ」「そういえば、お菓子も牛乳もあったね」わたしがそう言うと、蒼葉は本当におもしろそうに笑った。「ジュースもカップ麺もあったっけ。ってそうじゃなくてさ。最初、パンをもらった時、驚いたけど、単純にうれしかった。お腹空いてたから二人が帰った後、三袋くらい一気に食べたよ。だけど、三日後また来てくれた時、本当に三日ごとに来てくれるんだってわかった時、もっともっとうれしかった。不安が消えるって、心配がなくなるって、すごく大きいことなんだとわかった。明日が怖いものではなく楽しみになったのは、あの日からだよ」蒼葉はそう言うと、「俺があんな親の元に生まれたのに、それでも、ちゃんと生きてるのは、あの日のおかげだと思ってる」とわたしの顔を見た。
(第三章)

「わたし、命の恩人なんかじゃないのに」蒼葉を救えたのならうれしい。だけど、それが蒼葉と自分との間に、大きな壁を作ってしまっているのなら、あの日々を後悔してしまいたくなる。「俺さ、命を助けてもらっただけじゃなく、あの時すごくうれしかったんだ」蒼葉は顔を上げて、わたしを見た。「あの時?」「冴ちゃんとここでチョコレートを食べた時」「ああ、あったね。ジュースと一緒に食べたよね」「そう。冴ちゃんのお母さんがみんなのジュースの味、イメージで決めてさ」「そうそう、お母さん強引だから。一瞬だけマスク外して、口にチョコを入れて、またマスクを戻して。なんか忙しいおやつだったな」あの光景を思い出したわたしたちは、少しだけ笑えて、少しだけ緊張がほどけた。「冴ちゃん、ただのチョコなのに、何度もおいしいって言ってくれて、本当にうれしそうに食べてくれたんだよな。人から恵んでもらうしかなかった俺なのに、誰かを喜ばすことができるんだって、あの時、初めて知った。自分を価値のない哀れな子どもだと思ってたのに、目の前が明るくなった気がしたんだ」「本当にあのチョコレート、人生で最高においしかったから」今でもあの日のことは、鮮やかに思い浮かべられる。記憶のどこもあやふやになっていない。母と蒼葉と三人でこのテーブルを囲んだ。いつまでも崩れない幸せな思い出だ。
(第四章)