あらすじ

村上春樹、6年ぶりの最新長編1200枚、十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が長く封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。


ひと言
655ページの長編、まちがいなく村上春樹を読んだという読了感でした。本人のあとがきにもあるように1980年に文芸誌に発表したものをコロナで外出を控えたこの時期にじっくり書き直したとのこと。じっくり書き直しただけあり、読者に俺のメタファーを読み解けるのかと挑戦状を届けられたような作品で、頭がこんがらがってくるような作品でした。ただそれが村上春樹のよさで、読者の数だけ作品の解釈があり、ネバーエンディングストーリーのように無限に広がりをみせるのが村上春樹のよさなのだから……。

「もしこの世界に完全なものが存在するとすれば、それはこの壁だ。誰にもこの壁を越えることはできない。誰にもこの壁を壊すことはできない」、門衛はそう断言した。壁は一見したところ、ただの古びた煉瓦塀のように見えた。次の強い嵐だか地震だかであっさり崩れてしまいそうだ。どうしてそんなものを完全と言えるのだろう? 私がそう言うと、門衛はまるで自分の家族について故のない悪口を言われた人のような顔をした。そして私の肘を摑み壁のそばまで連れて行った。「近くからよく見てみな。煉瓦と煉瓦の間に目地がないだろう。それにひとつひとつの煉瓦の形もそれぞれに少しずつ違っているはずだ。そしてそのひとつひとつが、髪の毛一本入る隙間もないくらいぴったりとかみ合っているはずだ」そのとおりだった。「このナイフで煉瓦を引っ掻いてみな」、門衛は上着のポケットから作業用ナイフを取り出し、パチンと音を立てて刃を開き、私に手渡す。一見古ぼけたナイフだが、刃は念入りに研ぎ上げられている。「傷ひとつつきはしないはずだ」
(7)

「ときどき自分がなにかの、誰かの影みたいに思えることがある」ときみは大事な秘密を打ち明けるように言う。「ここにいるわたしには実体なんかなく、わたしの実体はどこか別のところにある。ここにいるこのわたしは、一見わたしのようではあるけど、実は地面やら壁に投影された影法師に過ぎない……そんな風に思えてならない」五月の日差しは強く、ぽくらは藤棚の涼しい影の中に座っている。実体が別のところにある?それはいったいどういうことなのだろう?「そんな風に考えたことってない?」ときみは尋ねる。「自分が誰かの影法師に過ぎないって?」「そう」「そんな風に考えたことはたぶん一度もないと思う」「そうね、わたしがおかしいのかもしれない。でも、そう思わないわけにはいかないの」「もしそうだとして、つまりきみが誰かの影法師に過ぎないとして、じゃあ、きみの実体はどこにいるんだろう」「わたしの実体は ―― 本物のわたしは ―― ずっと遠くの街で、まったく別の生活を送っている。街は高い壁に周囲をかこまれていて、名前を持たない。壁には門がひとつしかなく、頑丈な門衛
に護られている。そこにいるわたしは夢も見ないし、涙も流さない」それが、きみがその街のことを口にした最初だった。ぼくはもちろん何のことだかまるで理解できなかった。名前を持だない街? 門衛? ぽくは戸惑いながら尋ねる。「ぼくはそこに行くことができるの? 本物のきみがいる、その名前を持だない街に」きみは首を曲げ、ぽくの顔を間近に見つめる。「もしあなたが本当にそれを望むなら」「街の話をもっとくわしく聞きたいな。そこがどんなところなのか」「この次に会ったときにね」ときみは言う。
(13)

影は間を置いて呼吸を整え、それから口を開いた。「古い夢とは、この街をこの街として成立させるために壁の外に追放された本体が残していった、心の残響みたいなものじゃないでしょうか。本体を追放するといっても、根こそぎ完璧に放り出せるわけではなくて、どうしてもあとにいくらかのものが残ります。それらの残滓(ざんし)を集めて古い夢という特別な容器に堅く閉じ込めたのです」「心の残響?」「ここではまだ幼いうちに本体と影とが別々に引き剥がされます。そして本体は余分なもの、害をなすものとして壁の外に追放されます。影たちが安らかに平穏に暮らしていけるようにね。でもたとえ本体を放逐しても、その影響がすべてきれいに消えてなくなるわけじゃない。除去し切れなかった心の細かい種子みたいなものがあとに残り、それが影の内部で密かに成長していきます。街はそれをめざとく見つけてこそげ取り、専用の容器に閉じ込めてしまうんです」「心の種子?」「そうです。人の抱く様々な種類の感情です。哀しみ、迷い、嫉妬、恐れ、苦悩、絶望、疑念、憎しみ、困惑、懊悩(おうのう)、懐疑、自己憐憫……そして夢、愛。この街ではそういった感情は無用のもの、むしろ害をなすものです。いわば疫病のたねのようなものです」「疫病のたね」と私は影の言葉を繰り返した。「そうです。だからそういうものは残らずこそげ取られ、密閉容器に収められ、図書館の奥に仕舞い込まれます。そして一般の住民はそこに近寄ることを禁止されている」「じゃあ私の役目は?」「おそらくそれらの魂を ―― あるいは心の残響を ―― 鎮めて解消することにあるのでしょう。それは影たちにはできない作業だ。共感というのは、本物の感情をそなえた本物の人間にしか持てないものだから」「でも、どうしてそれをあえて鎮めなくちゃならないのだろう? 密閉容器に封じ込められ、深い眠りを貪っているのなら、そのまま放っておけばよさそうなものだが」「どれだけきつく封じ込められていても、それらがそこに存在しているってこと自体が脅威なんです。それらが何かの拍子に力をつけ、一斉に殼を破って外に飛び出してくること ―― それが街にとって潜在的な恐怖になっているのではないでしょうか。もしそんな事態が生じたら、街はあっという間にはじけ飛んでしまうでしょう。だからこそそれらの力を少しでも鎮めて解消しておきたいんです。誰かが古い夢たちの声に耳を傾け、見る夢を一緒に見てやることで、その潜在熱量が宥(なだ)められる ―― 彼らはおそらくそれを求めているのでしょう。そしてそれができるのは、今のところあんた一人しかいません」
(20)

壁はなんの前触れもなく、一瞬のうちに我々の前に立ちはだかり、行く手を阻んだ。いつものあの高く堅牢な街の壁だ。私はその場に立ち止まり息を呑んだ。どうしてこんなところに壁があるのだ? このあいだこの道を来たときには、もちろんそんなものは存在しなかった。私は言葉もなく、ただその高さ八メートルの障壁を見上げていた。おどろくことはない、と壁は重い声で私に告げた。おまえのこしらえた地図なぞ何の役にも立ちはしない。そんなものは紙切れに描かれたただの線に過ぎない。壁は自由にその形と位置を変更することができるのだ、と私は悟った。いつでも思うまま、どこにでも移動できる。そして壁は私たちを外に出すまいと心を決めている。「耳を貸しちゃいけません」と影が背後で囁いた。「見るのも駄目です。こんなものただの幻影に過ぎません。街がおれたちに幻影を見せているんです。だから目をつぶって、そのまま突っ切るんです。相手の言うことを信じなければ、恐れなければ、壁なんて存在しません」私は影に言われたとおり、瞼をしっかり閉じてそのまま前に進み続けた。壁は言った。おまえたちに壁を抜けることなどできはしない。たとえひとつ壁を抜けられても、その先には別の壁が待ち受けている。何をしたところで結局は同じだ。「耳を貸さないで」と影が言った。「恐れてはいけません。前に向けて走るんです。疑いを捨て、自分の心を信じて」ああ、走ればいい、と壁は言った。そして大きな声で笑った。好きなだけ遠くまで走るといい。私はいつもそこにいる。壁の笑い声を聞きながら、私は顔を上げずにまっすぐ前に走り続け、そこにあるはずの壁に突進した。今となっては影の言うことを信じるしかない。恐れてはならない。私は力を振り絞って疑念を捨て、自分の心を信じた。そして私と影は、硬い煉瓦でできているはずの分厚い壁を半ば泳ぐような格好で通り抜けた。まるで柔らかなゼリーの層をくぐり抜けるみたいに。そこにあったのは喩えようもなく奇妙な感触だった。その層は物質と非物質の間にある何かでできているらしかった。そこには時間も距離もなく、不揃いな粒が混じったような特殊な抵抗感があるだけだ。私は目を閉じたままそのぐにゃりとした障害の層を突っ切った。「言ったとおりでしょう」と影が耳元で言った。「すべては幻影なんだって」私の心臓は肋骨の檻の中で、乾いた硬い音を立て続けていた。耳の奥にはまだ壁の高らかな笑い声が残っていた。好きなだけ遠くまで走るといい。壁は私にそう言った。私はいつもそこにいる。
(24)

「その街に入るためには影を棄て、両眼を傷つけられなくちゃならない。そのふたつが門をくぐるための条件になる。切り離された影は遠からず命を失うだろうし、影が死んでしまったら、きみはもうその街から出て行くことはできない。それでかまわないんだね?」少年は肯いた。「こちらの世界の誰とも、もう会うことができなくなるかもしれない」「かまわない」と少年は声に出して言った。私は深く息をついた。この少年はこの現実の世界とは心が繋かっていないのだ。彼はこの世界に本当の意味では根を下ろしてはいない。おそらくは仮繋留された気球のような存在なのだろう。地上から少しだけ浮いたところで生きている。そしてまわりの普通の人たちとは違う風景を目にしている。だから留めてある鉤(かぎ)を外して、この世界から永遠に立ち去ってしまうことに、苫痛も恐れも感じないのだ。
(51)

こんな記述があります。酋長は集まったみんなに向かって言います。『誰でも足を使って椰子の木に登るが、椰子の木よりも高く登った者は、まだ一人もいない』。これはおそらくヨーロッパ人が都市に高い建物を建設し、上へ上へと向かって伸びていくことを揶揄した発言です。『誰でも足を使って椰子の木に登るが、椰子の木よりも高く登った者は、まだ一人もいない』。とても具体的でわかりやすい表現です。誰が聞いてもわかる喩え話です。そしてまた含蓄に富んでいます。この酋長の話をまわりで聞いている聴衆は ―― もちろん実際に聴衆がそこにいたとすればですが ―― うんうんと肯いていたことでしょうね。どれほど木登りが巧みな人でも、椰子の木そのものより高く登ることはまずできませんから」私は黙って彼の話の続きを待っていた。まるで新たな知識を待ち受けるサモアの島の住人のように。「しかし、酋長の話には逆らうようですが、ひとつこのように考えてみてはどうでしょう。つまり、椰子の木よりも高く椰子の木を登ってしまった人間は、まったくいないわけではないのだと。たとえばここにいるぼくとあなたは、まさにそのような人間ではないでしょうか」私はその光景を想像してみた。私はサモアのどこかの島に生えているいちばん高い椰子の木のてっぺん(それはだいたい五階建ての建物くらいの高さがありそうだ)まで登っている。そしてそこから更に高く登ろうとしている。しかしもちろん木はそこで終わっている。その先には青い南国の空かあるだけだ。あるいは無が広がっているだけだ。空を見ることはできるが、無を目にすることはできない。無というのはあくまで概念に過ぎないから。「つまり、ぽくらは樹木を離れて、虚空にいるということなのかな? 摑むべきものが存在しないところに」少年は小さく堅く肯いた。「そのとおりです。ぼくらはいうなれば虚空に浮遊しているのです。そこには摑むべきものはありません。しかしまだ落下してはいません。落下が開始するためには、時間の流れが必要となります。時間がそこで止まっていれば、ぼくらはいつまでも虚空に浮かんだままの状態を続けます」「そしてこの街には時間は存在しない」少年は首を振った。「この街にも時間は存在しています。ただそれが意味を持たないだけです。結果的には同じことになりますが」「つまりぽくらはこの街に留まっていれば、いつまでも虚空に浮かんでいることができる?」「理論的にはそうなります」私は言った。「とはいえ、何かの拍子に再び時間が動き始めれば、ぼくらはその高みから落下することになる。そしてそれは致命的な落下となるかもしれない」「おそらく」とイエロー・サブマリンの少年はあっさり言った。「つまりぽくらはその存在を保つためには、街から離れることはできない。そういうことなのかな?」「おそらく」とイエロー・サブマリンの少年はあっさり言った。
(68)