あらすじ

9人のうち、死んでもいいのは、―― 死ぬべきなのは誰か?大学時代の友達と従兄と一緒に山奥の地下建築を訪れた柊一は、偶然出会った三人家族とともに地下建築の中で夜を越すことになった。翌日の明け方、地震が発生し、扉が岩でふさがれた。さらに地盤に異変が起き、水が流入しはじめた。いずれ地下建築は水没する。そんな矢先に殺人が起こった。だれか一人を犠牲にすれば脱出できる。生贄には、その犯人がなるべきだ。―― 犯人以外の全員が、そう思った。

タイムリミットまでおよそ1週間。それまでに、僕らは殺人犯を見つけなければならない。


ひと言
読み終えて、これは2023年本屋大賞1位で間違いないだろうと確信しました。東野 圭吾さんの「容疑者Xの献身」を読んだとき以来のアッと驚く結末でした。調べてみると「容疑者…」は2006年本屋大賞4位、あれ大賞じゃなかったんだと思っていると、2005年下半期で「容疑者…」は直木賞を受賞していたので、そのときはまだ良識のある書店員さんたちは、売れるに決まっている「容疑者…」を避け、本屋大賞の趣旨である 全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本を選んで、本屋大賞4位になったのだと思われます。
この「方舟」は芥川・直木賞の候補にもあがっておらず、これこそ本屋大賞にふさわしい作品だと思います。最後のエピローグの12ページのために書かれた本で、これから読もうと思う人は「容疑者Xの献身」以来のアッと驚く結末をお楽しみに……。最後のエピローグからの引用は一切避けてあります。

三つの可能性がある。殺したいと思っていたさやかちゃんがたまたま捜し物をしていたのか?それとも、誰かを殺そうと思っていたら、たまたま彼女が捜し物をしていたのか。あるいは、彼女が捜し物をしていたから、殺さなくてはならなくなったのか。この中で、正解に一番近いのは三つ目だ。しかし。この場合は違う言い方をした方がいいかもしれない。犯人は、さやかちゃんが捜し物をしていたから、その首を切らなくてはならなかったんだ」「え?」聞き返すと、翔太郎は。まだ分からないのかと言わんばかりの顔をする。僕はしかし、説明されるほどに余計に謎が深まる気がした。捜し物をしているから首を切らねばならない。そんな恐ろしい捜し物がありえるのか?「何を捜してたんだ?」「それはね、スマホだ」「スマホ?」「そう。さやかちゃんのスマホはそこそこ新しいやつだっただろう? 使ってるところをちゃんと見てた訳じゃないが、多分、顔認証機能がついてたはずだ」顔認証?そう聞いた途端に、僕は自分の頭にかかった霧が晴れていくのを感じた。「―― そういえば、さやかは顔認証を使ってた」「そうか? ならもう間違いないな。つまり、こういうことが起こったと考えられる。さやかちゃんのスマホの中には、何か、犯人にとって不都合なデータが入っていたんだろう。そして、おそらくさやかちゃん自身はそのことに気づいていなかった。しかし、いつそのことに思い当たってもおかしくない状態だった。犯人としてはなるべく急いでさやかちゃんを殺さなければならない。そして、昨日の夜、チャンスが巡ってきた。さやかちゃんが一人で捜し物をしていた。絶好の機会だね。そうでもなければ、この地下建築ではなかなかバレないように殺人はできない。犯人は、首尾良く地下二階でさやかちゃんを絞殺することができた。しかし、計算外だったのは、彼女がスマホを所持していなかったことだね。さやかちゃんは、何かの拍子にスマホを失くして、それを捜すために、地下建築内をうろついていたんだろう。こうなると、犯人としては困ったことになる。殺して、スマホを処分してしまえばいいと思っていたのに、それは地下建築内のどこかに紛失している。スマホが見つかったら、死体の首を使って顔認証をし。ロックを解除されてしまうかもしれない訳だ」「―― だから犯人は、さやかの首を切り落としたのか」[そういうことだ]翔太郎は無感情にそう言った。
(3 切られた首 六)

僕らが殺すのは七分の一人、犯人はすでに二人を殺している。だから、犯人が死ぬのが正しい。―― なんだか妙である。この計算は本当に正しいのか?麻衣は力なく笑った。「屁理屈みたいなこと言ってるのは分かってるんだよね。だって、この事件の犯人って、バレたら死刑になるでしよ? その命を使ってみんなを助けないと、一人多く死者が出るってことだもんね。でも、殺人犯になりたくない人は、自分が巻き上げ機を回すって志願しなきゃいけないのかなって思っちゃって」彼女は、これまでにどんな相談を受けたときよりも饒舌だった。この地下で、話し相手がいないのはあまりにもつらいことなのだ。「麻衣、そんなの、志願する気ないでしよ?」「ないよ。犯人が分かってないのに、自分が死ぬのは意味が分かんないもん。どうやって地下に残る人を決めるのかって。完璧な方法はないんだよね。当たり前だけと。柊一くん、こういうときって、普通はどうするかっていうの考えたりする?」「普通?」この、異常なことしかない地下で、普通とは何のことだろうか?「あ、この地下でってことじゃないんだ。ほら、警察だと、危険な任務に独身の警察官をあてるとかって話、聞いたことない?」「ああ、何となく知ってる」知っているばかりでなくて、似たようなことを僕も考えていた。フィクションなら、家族があるもののために、孤独なものが自らを犠牲にする。花の話を聞いているときに、脳裏によぎったことである。「悲しむ人が少ない方がいいってことだよね。でもさ。それって、愛されてない人は、愛されてる人より生きてる価値が低いって言ってるようなものだと思うな」麻衣は寂しげに言った。「映画でもあるよね。殺されそうな人が、自分には恋人がいるとか、家族がいるとかって命乞いするシーン。家族とか恋人がいなかったら殺していいのかって話だよね。世の中、みんなに人権があるっていったって、その中から誰か犠牲者を選ぷってなったら、一番愛されてない人が選ばれるんでしょ?それってもう、デスゲームみたいなものだと思うな。知恵が劣る人とか、体力が劣る人が脱落するデスゲームがあるでしょ? 愛されてない人が死ななきゃいけないのって、それと同じくらい残酷なんじゃないかな。あとさ、防災のキャンペーンとかで、『あなたの大切な人をまもるために』とかっていうの、よく聞くでしょ? しかもそれを、世界の人全員に大切な人がいると思い込んでるみたいに連呼するよね」彼女の言葉は、僕の心を刺した。
もしも自分が『方舟』で死んだら、僕の家族はどうするだろうか? こんなところで死んだのか、と面食らうだろう。きっと、少し僕への罪悪感も覚える。そして、少しずつ忘れていく。仮に、この地下建築に閉じ込められたのが家族連れやカップルばかりで、その中に僕が一人交ざっていたとしたらどうだったろうか? 麻衣の言う、愛されないもののデスゲームが始まっていたかもしれない。死んでも誰も悲しまないものが死ぬべきだ。―― みんながそう考え、もしかしたら、自分でも納得して、僕があの巻き上げ機を回すことになったかもしれない。「愛する誰かを残して死ぬ人と、誰にも愛されないで死ぬ人と、どっちが不幸かは、他人が決めていいことじゃないよね」麻衣はそう言って、僕の右手に左手を重ねた。
(3 切られた首 七)